新国立競技場の建設も計画の錯誤のワナに陥った
東京オリンピックは新型コロナの影響で開催が1年延期になりましたが、無観客で無事開催されました。
開会式と閉会式の舞台であり、陸上競技のメイン会場でもある新国立競技場の建設を巡って起きた騒動は、既に過去の話として忘れ去られつつあるので経緯を振り返ります。
もともと国立競技場は、約1300億円の整備費で建設されることになっていましたが、コンペで選ばれたザハ・ハティド氏のデザイン案では3000億円以上かかることが明らかになりました。
そこで、文部科学省管轄の日本スポーツ振興センター(JSC)が大幅に規模を縮小し、1625億円規模の修正案を公開しました。
ところが、それでも資材高騰などが影響し、2520億円かかることが判明しましたが、結局このまま建設されることになりました。
当時、新国立競技場の建設費ばかりが話題になりましたが、他の施設においても、当初予算を超過している事案が多発していたことに気付いている人はあまりいませんでした。
この手の問題は、東京オリンピック全体でどれだけの予算超過が発生する可能性があり、将来に向けてどれだけの維持費を負担していく必要があるのかという、もっと包括的な視点でとらえた方がよいはずです。
残念ながら、誰が良いとか悪いとかという問題ではなく、そもそも計画を立てても、その通りにならないのが世の常で、人間が共通して犯す計画の錯誤が原因しているのです。
世界の大規模建設プロジェクトの予算超過例
建設費が当初予算を大幅に上回る事態は、残念ながら新国立競技場だけに起きていることではありません。
舞台を世界に求めれば、過去に同じような事例がいくつもあったことがわかります。
シドニー オペラハウス | 予算:700万豪ドル → 1億400万豪ドル |
スコットランド 新国会議事堂 | 予算:4000万ポンド → 4億3100万ポンド |
プラジル 2014年サッカーW杯 スタジアム | 予算:56億レアル → 84億4000万レアル |
香港 香港・珠海・マカオ大橋 | 予算:378億元 → 500億元(未完成) |
アップル社 新社屋 | 予算:30億ドル → 50億ドル(未完成) |
二番目に例示したスコットランドの新国会議事堂についての詳しい経緯は、こういうことです。
1997年 新国会議事堂を総工費4000万ポンドでエジンバラに建設する計画が議会に提出される。
1999年 予算は1億900万ポンドに修正された。
2000年 議会は予算上限を1億9500万ポンドとする法案を可決した。
2001年 最終予算見積額として、2億4100万ポンドが提出された。
2002年 2回予算が上方修正され、2億9460万ポンドとなった。
2003年 3回に渡って予算が上方修正され、3億7580万ポンドになった。
2004年 新国会議事堂落成 総工費は4億3100万ボンドとなった。
途中8回におよぶ建設費の予算修正があり、結局10倍を超える費用がかかったわけで、こうなると予算なんて組む意味がまったくありません。
しかも、見込違いが発生したのは建設費だけではありません。
完成予定も当初の2001年から3年遅延して2004年になったのです。
つまり、建設と工期の両面において計画が、その通りにはならなかったということになります。
じつは、例としてあげた5つ全てにおいて、建設費の超過だけに留まらず、工期の遅れが発生しています。
シドニー オペラハウスは完成が10年遅れ、当初予算の13倍の建設費をかけましたが、あれでも初期設計から比べるとつつましい姿だそうです。
香港・珠海・マカオ大橋は2016年の完成を予定していましたが2018年の完成となりました。
アップルの新社屋は、2015年完成予定が2年延びて2017年に供用開始となりました。
日本の新国立競技場は、一連のゴタゴタ騒ぎの影響で着工が1年以上遅れたため、建設費の問題だけではなく工期の遅延というつぎの問題を抱えることになりましたが、ものづくり日本の真骨頂を発揮して予定通り2019年11月に竣工に漕ぎ着けました。
意思決定者が犯す計画の錯誤とは
世の中の話ではなく、今度は自分に置き換えて考えてみてください。
たとえば、高額な商品の代表である自動車を買うときに、当初の予算をいつも下回っているでしょうか。
また、レポートを提出する締め切り日まで1日以上を余らして完成させるのが常でしょうか。
個人に留まらず、国の叡智を結集した集団においてさえ、リスクを伴うプロジェクトの計画を立てるときに、意思決定者はあっけなく計画の錯誤を犯します。
錯誤にとらわれると、利益・コスト・確率を合理的に考慮せず、非現実的な楽観主義にもとづいて決定をくだすことになります。
利益や恩恵を過大評価してコストを過小評価し、成功のシナリオばかり描いて、ミスや計算違いの可能性を見落とす。
その結果、予算内かつ納期までに収まりそうもない計画、予想収益を出せない計画、それどころか完成もおぼつかない計画に邁進することになってしまいます。
このように考えると、大きなリスク・テイキングを伴う計画を前にして、意思決定者がしばしばゴーサインを出すのは、成功の確率を過度に楽観視しているからだ、と言うことができます。
その意味で、計画の錯誤とは、数ある楽観バイアスの一つに過ぎません。
我々の大半は、世界を実際よりも安全で親切な場所だとみなし、自分の能力を実際よりも高いと思い、自分の立てた目標を実際以上に達成可能だと考えています。
また自分は将来を適切に予測できると過大評価し、その結果として楽観的な自信過剰に陥っています。
自分の成功を疑わない楽天主義者でなければ務まらない経営者
しかし、楽天主義者は捨てたものではありません。
楽天主義者が我々の社会で果たす役割は、ふつうの人と比べてはるかに大きいのです。
彼らの決定は大きな変化をもたらします。
彼らは、起業家であり、指導者であり、発明家であって、そこらの人間とは違います。
彼らがその地位に就いたのは、自ら困難を探しリスクをとったからです。
アメリカのスタートアップの例ですが、5年後に生存している確率は約35%です。
しかし起業家は、この統計が自分に当てはまるとは思っていません。
ある調査によると、米国の企業家は自社と同じような企業が成功する確率を60%と見込む。
そしてこれが自社のことになると、バイアスは一段と加速して、起業家の81%は、自社の成功率を70%以上と見積、かつ33%は失敗の確率はゼロだと言い切りました。
大胆と楽観主義が実業家の共通点であり、彼らのリスク・テイキングが、資本主義経済を活性化させていることは間違いありません。
だがもちろん、彼らは間違っています。
スタートアップの運命は、起業家の努力と同じくらい、競争相手の出来不出来や市場の変化に左右されるものです。
ところが彼らは、自分が目にしているものがすべてであるというトンネル視野に犯され、自分が最も知っていること、すなわち自分の計画や行動、差し迫った危機あるいはチャンスしか見ようとしていません。
競争相手についても知っている情報が少ないために、彼らの描く未来図では、競争がほとんど登場しないのです。
スタートアップに限らず、そこそこ業歴の長い会社の経営者に競争相手のことを聞いても、相手の業容はおろか社名すら網羅的に出てこないことがあり、驚くことが多々あります。
楽天主義でもよいが計画は不確定要素を必ず盛り込むこと
これほど計画というものが、楽天主義と自信過剰の産物であったとしても、企業経営をおこなううえで計画を必ず立てるしかありません。
意思決定者としては、認めたくないことですが、計画は必ずその通りには実現しないという思考の前提を持つ必要があります。
そのうえで、実績が計画から乖離する値を出来る限り小さくするための補正をおこなうこと、そして計画に対して実績が大きく乖離した場合のコンティンジェンシー・プランを、あらかじめ策定しておくことが重要です。
したがって、その際に考慮すべき重要ポイントとして、主に以下の4つを例示しておきます。
- 意思決定者が認知バイアスを認識する。
- ベストケースとワーストケースの2つを検討する。
- 類似のケースに関する外部情報を入手して参照枠とする。
- 計画に撤退の基準とプロセスを盛り込む。
自社の過去実績という内部情報の延長線上で将来の計画を立てる方法が、まだまだ主流だと思いますが、下手な計画は立てない場合と大差がなくなるので、経営者として自社の計画のあり方を考えてみてください。