「教育」や「政治」に経営感覚を持ち込む誤りを犯す愚

経済・社会・政治
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「ゆとり教育」の問題は「公教育の民営化」というコンセプトにある

「教育」と「政治」の世界において、質の低下が止まりません。

「教育」の世界では、非管理教育の考え方が放任と甘やかしを生み、子どもたちの我が儘を招き、教師の権威を否定し、その結果学力の低下を招いているという通説があります。

その論拠は、バージニア大学教授エリック・ハーシュ氏が著書『教養が国を作る』の中で主張した「アメリカ教育の荒廃の真の原因は 、社会的な変化や教師の無能、学校制度の欠陥等ではなく、非管理教育の理論を教育政策決定者が採用したことにある」にあります。

日本でもアメリカの非管理教育理論の影響を色濃く受けて、戦後長らく「学歴社会の下での受験競争が非行、暴力、いじめ、不登校などの教育荒廃を生んでいる」という教育批判が支配的論調となっていました。

実際に、1980年代から2010年まで「ゆとり教育」が導入されたのは、ご存じの通りです。

しかし、生徒の学力低下が指摘されるようになると、2011年度から「脱ゆとり教育」と呼ばれる学習指導要領へシフトされています。

このため、「ゆとり教育」を受けた若者を「ゆとり世代」と称して揶揄することが多いのですが、導入の経緯を探ると、日教組が提起していた「ゆとりある学校」というコンセプトを、国営企業の民営化を推し進めた第2次中曽根内閣の臨時教育審議会が、「公教育の民営化」という意味合いにおいて取り入れたのです。

「公教育の民営化」が何を意味するかというと、教育を行政サービスとして捉えるのではなく、民間で行っている経営と同じように捉えようということです。

授業時間を減らして生徒の学力が低下したこと以上に、この「公教育の民営化」という考え方にゆとり教育の問題の本質があります。

政治に経営感覚を持ち込めば改革ができると主張する人々

一方「政治」の世界にも、数多くの課題がありますが、「政治に金がかかりすぎる」という大きなテーマがあります。

目前の話では、東京オリンピックの施設整備費と運営費が3兆円と、当初計画の3倍以上に膨れ上がることが判明し、小池百合子都知事が費用の削減を図ろうと試みるも、大会組織委員会、国、IOC、各種競技団体との間で調整が難航しています。

東京オリンピックのような特定のイベントに限らず、国を筆頭に地方公共団体が各種行政サービスや施策を実行に移すと、年々必要な予算が増大し歳入が不足しますが、多くの場合、歳出の削減を行うことなく交付金や公債の発行で帳尻を合わせ続けているうちに財政悪化を招くことになります。

このように政治の世界において金銭に対するバランス感覚が欠如している様を見ると、「経営」の世界の住人は、「問題解決は簡単だ。政治にも経営感覚を導入すべし」と主張します。

実際のところ、高名な経営コンサルタントである大前研一氏は、1995年都知事選挙に立候補しています。(青島幸男氏が当選した選挙です。)

そのときのスローガンが、これです。

都政に経営を!

大前氏曰く、「都政のお金の流れをバランスシートにしてみると、このまま進んだら破綻することは目に見えていた。そこで、わたしは経営感覚を持って都政に取り組み、窮状を打破しようと立候補した」

また2010年7月福岡市で、ホリエモンこと堀江貴文氏は、民主党の参議院議員比例代表候補の応援演説の中でこう語りました。

現在の政治家には、経営経験を持つ人、またはその感覚を持つ人が非常に少ない。5%、いやそれよりも少ないのではないか。今後の政治には経営感覚が必要だ。

現在の首相である安倍晋三氏も、「政治に経営感覚を持ち込む」ことを意識しています。

経済産業省「平成25年度ダイバーシティ経営企業 100選表彰式」に届けられたビデオ・メッセージの中で、安倍首相はこう語りました。

私にとってのダイバーシティとは、社会政策ではなく、成長戦略なのです。

安倍首相に言わせれば、政治に経営感覚を取り込んだ結果がアベノミクスであり、それは政策ではなく成長戦略なのです。

だからこそ「戦略」という言葉を重視しているのでしょう。

たしかに、これまでの政治に経営感覚がなかったことは事実ですが、経営感覚を導入することで、これまでの政治的課題が解決されると、無邪気に信じてよいかどうかは別問題です。

教育に経営感覚が馴染まない理由とは

資本主義全盛の時代ということがあり、「教育」や「政治」の世界においても、「経営」という考え方を取り込めば、何ごとも一件落着するという安易な風潮が、このように蔓延しています。

しかし、「経営」は本当に、すべてを解決する打ち出の小槌なのでしょうか?

「教育」や「政治」の課題について語ることは主旨としませんが、「経営」の可能性と限界を考えるにあたって、「教育」や「政治」の世界という土俵を借りることには、大いに意味があると考えます。

もちろん、学校もお金がなければ立ちゆきません。

相応の入学者を確保しておかないと、自分たちが目指す教育ができないので、あまり浮世離れしたことばかり言ってはいられません。

でも、教育者が「私たちがやりたい教育を貫くためには、財務内容やブランド・イメージをどのように健全化すべきか」と考えるのと、「利潤を確保するために、教育内容やイメージ戦略をどうすればいいのか」と考えるのは、単なる表現の違いに過ぎないと思う人がいるかもしれませんが、正反対に近いくらい方向性が異なります。

最近遅ればせながら知ったことがあります。その昔は、学校の事務系職員の方が仕事をしている部屋であり部署を「事務室」と呼んでいましたが、今どきは「経営企画室」と呼ぶらしいです。

調べてみると、東京都の場合「東京都立学校の経営企画室に関する規程」という条例が、 昭和61年03月31日 教育委員会訓令第10号として発布されているので、実はずいぶん前から組織変更と呼称変更が行われていたようです。

企業で使われている組織名である「経営企画室」という呼称を、そっくり学校組織に取り入れていることに、強烈な違和感を感じます。

少子化により生徒数が減少傾向にあることから、「学校経営」というテーマの優先順位が、昔に比べると高くなっている状況は理解できます。国立大学も独立行政法人となりましたし。

でも、学校はどこまで行っても「営利企業」ではありません。

株式会社のように、配当を約束して出資者を募って始めたビジネスではありません。

学校あるいは教育は、たくさんの篤志の支援を得てぎりぎり成り立つものではないでしょうか。

ですから、「学校経営」において立てるべき問いは「いかに収益を上げるか」ではなく、「どのようにしたら多くの篤志の方々から支持と支援をいただけるか」になるべきです。

しかし最近では、公立学校が民間企業出身の校長を公募したり、経営企画室を設けて「戦略策定」をしたりと、教育をビジネスとして捉えるべきだという風潮を強く感じます。

「教育にも市場原理、競争原理を導入しなければ、学校は市場の淘汰圧にさらされて退場の憂き目に逢う」

こうしたビジネスマン然とした言葉は、論理的で分かりやすく、説得力があるように思えますが、教育というものは、金を出資したら金で返ってくるというビジネスとは異なるものです。

支援しても基本的に持ち出しで、いつの日か違った形で何かが戻されるであろうという期待感を礎にしている気の長い話なのです。

いま10歳の子供が、10年後20歳になったときにどのような大人になるか、さらには、30年後40年後に社会にどのように貢献しているかによってしか、教育の成果は確認しようがないのですから。

したがって、せいぜい1年のスパンでものを考えていることが多い企業経営と、10年単位で小さな変化しか起きようがない教育とは、根本的に時間軸の長さが違います。

企業経営で培われた出来合いのツールや思考法が、まったく役立たないとは言いませんが、この時間軸の長さの違いを明確に意識していないと、かえって問題を複雑にしてしまうだけでなく傷口を広げることになります。

ところが、教育界にもビジネスマインデッドな人が多数流入し、「企業で培った経営感覚をそのまま教育に持ち込めば、簡単に問題が解決する」と考えているために、表面的な問題は解決しているように見えて、実は深く静かに別の問題を生み出しています。

例えば、「生徒はサービスの受け手であり、いわばお客様のようなものである」という考え方や、「学校教育におけるステークスホルダー」などという言葉遣いを見聞きすることがあります。

「ステークスホルダー」とは、利害関係者という日本語に置き換えることが出来ます。

学校教育において利害が存在しているという前提もどうかと思いますが、学校教育の顕在的ステークスホルダーは、一般的に以下のように理解されているようです。

  • 組織主体:委員会・管理職・教職員
  • コスト負担:自治体・納税者
  • 直接受益者:生徒・保護者

しかし、教育においてはビジネスにおける「商品」「サービス」に相当する「交換の対象物」が存在しません。

特に義務教育では、教育は無償で提供されているものであり、教師から生徒への一方通行の流れしかありません。

それと、上記のステークホルダー一覧を見て、大きな違和感を持った点があります。それは、直接受益者に「保護者」が含まれていることです。

「義務教育」という言葉の含意を、親子ともども「子供は学校へ通う義務がある」と理解している人々が、昨今の日本では多いようです。

残念ながら、それは誤解です。日本国憲法26条は、こう定めています。

すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

つまり、子供には「義務教育を受ける権利」があるだけで、義務はありません。子供を学校に通わせる義務を負っているのは、親の方です。

歴史を紐解けば、産業革命とともに児童労働が問題となり、親による子供からの収奪を防ぐ意味で義務教育という制度が制定されたのです。

この意味から言えば、保護者は直接受益者ではあり得ません。

ところが、日本ではGHQによる指導により、アメリカにしか存在しない「PTA」という制度をコピーしたために、保護者による教育支援が重要視されるようになりました。

世界的に見ると、PTAはアメリカと日本にしかなく、義務教育というのは、子供を親の保護の及ぶ範囲から遠ざけることが第一義であるという教育史的常識が日本では通用しないため、教育を考えるときの話をややこしくしています。

話を元に戻すと、教育の現場では「ステークホルダー」とか「お客様」というビジネス用語は、基本的に馴染まないのです。

突き詰めれば、教育における不可欠の関係者は「教師」と「生徒」の2つしかありません。しかも、この2者の間には、教師から生徒への一方通行の「教え」の贈与という流れしかありません。

B/SやP/Lを評価するときは、財務的知識が役立つことはあるかもしれませんが、学校教育全体を考えるときに、経営感覚を取り込もうにも、その土壌がそもそも存在しないのです。

目指すところが異なる「政治」と「経営」

先週、アメリカの第45代大統領にドナルド・トランプ氏が選出されました。

クリントン氏有利との下馬評を覆して当選した理由は、いろいろ語られていますが、政治家としてのキャリアゼロの実業家に投票した人々の心に「“経営感覚”を持った大統領ならばアメリカ経済を底上してくれる」という期待感があったのではないでしょうか。

トランプ氏以前に実業家出身でいきなり行政府の長となった人物としては、2002年から2013年までニューヨーク市長を3期務めたマイケル・ブルームバーグ氏がいます。

2010年に行われたニューヨーク市民を対象にした人気調査で、ブルームバーグ氏は過去30年間の歴代市長のトップに輝きましたが、実業家出身の政治家の成功例があったことは、少なからずトランプ氏の大統領選出を後押ししているはずです。

金持ちの実業家という点で、トランプ氏とブルームバーグ氏は似ていますが、金持ち度合いという点では、総資産額400億ドル(4兆円)以上で全米8位のブルームバーグ氏と比べると、トランプ氏の総資産額はその10分の1の45億ドル(4800億円)ですから、圧倒的な差があります。

余談ですが、ブルームバーグ氏は今回の大統領選に無所属で立候補する意向を当初示していましたが、トランプ対クリントンの戦いとなった場合に、自らが第三の候補となれば、クリントンの票を奪い「三すくみ」の状態になるとして、トランプ氏の選出を阻止するために出馬を断念しています。

戦後の日本では、有名な実業家出身で議員になった人は何人もいるのでしょうが、市町村レベルではなく都道府県の知事になった人は寡聞にして知りません。総理大臣は、もともと国会議員を経なければなれませんが、2008年に第92代内閣総理大臣に就任した麻生太郎氏が、唯一実業家出身としてあげられます。

ただ、現在も安倍内閣で財務大臣を務めている麻生氏は、首相時代を含めて、実業家出身ならではのセンスを武器に目立った活躍しているとは思えません。

さて、議員の政務活動費の水増し不正問題が全国で頻発して政治家自身の素養が問われたり、健康保険制度や年金制度の財政状況が悪化の一途を辿っているとか、公共事業は必ず事後的に予算が超過するとか、議員や公務員の数が多すぎるから定数削減が叫ばれたりとか・・・政治の世界でも、課題が山積しています。

この事態を打開するためには、政治に経営感覚を持ち込むことが、最善の策なのでしょうか。

先ずはここに、JR東海の代表取締役名誉会長である葛西敬之氏の著作『国鉄改革の真実-宮廷改革と啓蒙運動』(2007年中央公論社)の一節を引用します。

「政治の場」で「民営化」を決めることの矛盾

国鉄が1964年に赤字に転落してから、1987年に分割民営化されるまでの二十余年は、都合五次(廃案も含めれば六次)に及ぶ再建計画失敗の歴史だった。

その根本原因は「政治の手法」により「経営の成果」を求める公共事業体という仕組みそのものに内在した。

政治は「対話」という最も原始的な手段により、「コンセサンス」を形成し「複雑で多様な課題」に対処する。

経営は「近代的なツール・システム」を駆使して「戦略的決断」を行い、「利益や市場占有率の拡大」という単純明快な目標を追求する。

政治は「妥協」であり経営は「徹底」である。

政治は「平等」を旨とし、経営は人的財的資源の「集中」を鉄則とする。

政治の場では「大衆」の意に沿うために「転ばぬ先の杖」は忌避される傾向があるが、経営は訴求対象を戦略的に絞り込み、その潜在欲求を「先見的」に提供しなければ、成功を収めることはできない。

国鉄経営の失敗は、何をやるべきかがわからなかったからではなく、わかっていながら政治的な妥協を余儀なくされ、不十分で、不徹底で、時期遅れにしか実施できなかったからだということを当事者はみな知っていた。

見事に「政治」と「経営」の本質を対比した記述です。

葛西氏の指摘によれば、「政治」とは、「対話」と「コンセサンス」であり「妥協」であり「平等」であり「後手に回る」ものなのです。

だから、「政治」にも経営感覚を導入することを主張する人は、こう考えるのでしょう。

「政治」においても「近代的ツール・システム」により「戦略的決断」を行い資源の「集中」を図り、「先手を打つ」ための決定事項を「徹底」して、単純明快に数値目標を追求すればよい。

しかし、これを実現するためには、重大な前提があります。

先ず問いたいのは、政治家あるいは私たち自身が、「政治」の目的をどう考えているかです。

色々な考え方があるでしょうが、税金を徴収して公共サービスを提供するという仕組みを回すのが「政治」の役割であることを認めるなら、大きな意味での社会資本の再配分が「政治」の目的と言わざるを得ません。

言い替えると、人々が欲するお金を政治家が再分配する。それが「政治」という構造の持つ機能だという信憑を多くの人々が持っているということです。

そして、適切な社会資本の再分配が実現すれば、人々が幸せになるという前提で「政治」は成り立っています。

この前提が正しいかどうかは、とりあえずいったん棚上げにして、この前提を置いている限りは、「政治」に「経営」を導入したところで、うまく機能しないでしょう。

なぜなら、旧国鉄において「経営」に「政治」を持ち込んだために失敗を招いたことと表裏一体の話に過ぎないからです。

「経営」は「集中」と「徹底」を抜きにしては成り立たないために、「政治」に経営感覚を取り込むと、必ず「切り捨て」や「傾斜配分」が発生します。

最近の傾向として、共同体の運営を行うための「政治」においても経営感覚を研ぎ澄まし、共同体が強くなるためには、弱者を切り捨て、強者のみを構成員にすることだと考える人が増えています。

そして、強者ほど「自己責任論」を主張しますが、自己責任論において、個人がリスクを取り、努力をし、その報償として得た利益については優先的な請求権があるというルールを認める限り、私たちは構造的に弱者を必要とするという矛盾に気付いていません。

共同体に「弱者」として含まれる幼児や老人や病人とは、共同体のすべての構成員にとって「自らがかつてそうであり、この先そうなるかもしれない」姿なのです。

誰しも、かつては幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人になる。だからこそ、幼児を養い、老人を敬い、病人を癒やすというのは、自分自身に対する時間差をともなった配慮にほかならないのです。

したがって、「政治」の目的が、共同体の中で子どもや老人や病人にも、資源が公平に分配されるシステムを安定的に運用することだとするならば、経営感覚を過度に持ち込むことで、政治本来の果たす役割を放棄する結果になることは避けたいものです。

反対に「経営」に「教育」や「政治」を取り込まない

「教育」や「政治」の分野に留まらず、最近何でもかんでも「経営」が大切だという風潮があります。

「医業」の世界も、その昔は「医は仁術だ」と言ってられましたが、最近では医学の研鑽を積むこと以上に、医業経営にエネルギーを注いでいる方もいるようです。

資本主義経済のもと、お金は不可欠な存在ですから、きれい事だけを並べて「頭の中がお花畑」でも困りますが、経営感覚を持てば問題が解決すると安易に考えずに、いまいちど「経営とは何なのか」という根本的な問いかけをしたいものです。

ここまで話をしてきたように、少なくとも「教育」とか「政治」の世界では、経営感覚を磨く以上に、もっと磨くべき大切なものがあります。

反対に、企業において行う「経営」の中に、「教育」や「政治」を取り込まないように気を付ける必要があります。

歴史が長い、あるいは規模が大きい企業では、「経営」ではなく「政治」が行われていることが多いことは、みなさんがご存じの通りです。

また、企業で「人を育てる」といっても、それは本当の意味での「教育」とは違います。

本来の教育は、入力から出力までに長い時間がかかります。そして、教育の成果は個々人に依存するもので、必ずしも一律に定義されていないし保証もされていません。

企業で行うことが出来るのは、せいぜい「訓練(トレーニング)」だと割り切って、あまり大上段に振りかぶらないようにしましょう。

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