思考の時間軸が長い経営のすすめ

経済・社会・政治
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“やりたいこと・やるべきこと”が“やれること”より優先される風潮

 

上の記事では、以下のような内容の話をしました。

  • 自己完結的な「やりたいこと」「やるべきこと」を偏重する傾向が、個人から企業経営の中まで波及している。
  • 他者のニーズを見出し、ニーズに応えるために自社の「やれること」あるいは「できること」を提供していく姿勢が弱くなっている。
  • 「やりたいこと」「やるべきこと」に過剰に力点を置いた経営は、営利行為ではあるけれど公共性を帯びている企業活動の本質を見失い、結果として不祥事や不正行為の温床になる。

不祥事や不正行為に対する企業トップの言い訳が、自己都合を優先し大義に欠けた内容であることが多いのは、「やれること」を軽視し、自己完結的な「やりたいこと」「やるべきこと」主導の経営が行われているからです。

不祥事の釈明ですぐにばれる嘘を吐く人が増えた

さらに最近の傾向として、不祥事や不正行為が発覚したときに、すぐばれる嘘を吐く人が増えています。

メディアによって事件性がある含みで一報がなされると、とりあえずその場しのぎの「すぐばれる嘘」を吐いて時間稼ぎをして、二進も三進もいかなくなったところで「わたく、実は嘘を吐いていまし」とカミングアウトするというパターンです。

『警察密着24時!』のようなテレビ番組でも、職質されたり逮捕された人が「そんなこと知りません」「何のことかわかりません」とシラを切る場面が目に付きます。

元兵庫県議員の野々村竜太郎氏が、釈明会見で泣いたり意味不明のことを叫んだりしたのも、事実を突き付けられているのにも関わらずシラを切り通すパターンに当てはまります。

以前、複数回に渡るリコール隠しが発覚した三菱自動車が開いた記者会見で、トップである相川社長が「誤っていると認識しながらやっていたのか、20年以上前のことでよくわからない」「はじめた時には『これでいいんだ』と思ったのが伝承され、疑わずにやっていたのではないか」という発言をしていました。

「わからない」を簡単に口にするのは、当事者意識が欠如して心理があるからです。その心理は、広い意味で「すぐにばれる嘘」を吐く心理と同根です。

日本社会では、「すぐにばれる嘘」を吐くことに対する心理的抵抗がどんどん低くなってきているのです。

変化のスピードが早く思考の時間軸が短くなった現在の状況

ものごとの変化のスピードが早くなり過ぎると、目先のことを考えるので精一杯で、長い時間軸で思考する余裕がなくります。

分かりやすいのは代議士です。

選挙の時は、当選のために天下国家を論じる立派なマニフェストを掲げその大義のために命を賭すと叫びます。だが当選後、頭の中の大半を占める懸案事項は、次の選挙で再選できるかどうかです。

最長で4年、うっかりすると1年で解散になり、その間に目に見えた成果をあげていないと、次の当選はおぼつきません。

マニフェストで10年先の未来の話をしていても、本当のところは、そんな先のことは考えてもしかたがないと思っているのです。

共同体にアイデンティティが置かれていると長くなる思考の時間軸

人や組織が、寿命100年の生命体としてふるまうなら、いま良い思いができるけれど10年後に手痛いしっぺ返しがくることはしないでしょう。損得勘定に合わないからです。

一方で、寿命1年の生命体として振る舞うなら、10年後に受けるペナルティはないのと同じです。

日本人の平均寿命は伸び、日本は世界一長寿企業が多い国になったけれど、主観的な寿命はどんどん縮んでいます。

かつて人間は、「個」として短命に生きていたのではなく、主観的には寿命の長い生き物でした。

人間の歴史においては長らく、先ず社会(集団)があって「個」がいるという考え方をする共同体的発想が強かったからです。

世の中には、親族共同体、地域共同体、学術共同体、政治団体、株式会社・・・などが多数存在して、それぞれの共同体には複数の人が属し、複数の世代にまたがる寿命の生命体でした。

個体としての自分はいずれ死ぬが、自分が先行者から引き継いだ共同体は、後継者に受け渡され、個人の生死とはかかわりなく生き続けます。

自分自身ののアイデンティティを個人よりむしろ共同体の集合的自我に置く人の生き方は、生物学的寿命とは関係なく、寿命の長い視野を持っています。

近代以前までの人々は、地縁、血縁、あるいは職業などに根差す集団的自我を形成し、3世代で100年を主観的寿命とする生命体でした。

100年を主観的寿命とする人は、家名を辱めない決意、郷土の誇り、職人気質を持ちます。

これらの気持ちは、単に集団の結束を強めるためにだけに掲げられた原理ではありません。

自分一人の損得ではなく、寿命の長い生命体として考え行動しろという行動規範を遵守する動機になっていたのです。

核家族化が進むことで短くなった思考の時間軸

近代に入り核家族化が進み、親族共同体も地域共同体も崩壊しました。

それに伴って共同体的価値観が崩壊した影響は、子どもと老人という両極端な世代に反映されています。

教育現場で共同体的価値観が衰退し、代わりに市民社会的価値観が強くなることで、教師と生徒の関係性が「贈与」から「等価交換」へと変化したという指摘が、『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著 2005年中央公論社)の中でされています。

この本の中で、喫煙をしている現場を発見されたにも関わらず断固として喫煙の事実を認めない生徒と、試験中にカンニングペーパーを発見されたにも関わらず一切カンニングの意図も行為も認めない生徒の話が出てきます。

自分の行為を否認するのは、最近の生徒の傾向とのことです。

一昔前の不良は、以下の特徴を持っていました。

80年代以前のワルたちは世の中や学校の基準値に馴染めない自分を発見して、あえて独自の自己基準を立てていた。

彼らは世の中的な学校的な価値観がどのようなものかを知っていたが、同時に自己の生きざまとの不調和も意識していた。

世の中的な学校的な基準と自己との距離を測って生きていた。

だから、昔のワルはわがままを承知で自己主張したのである。本人もそれを知っていた。

ところが、喫煙やカンニングをする最近の生徒は、「自分の思っていること、自分の判断していることは、ほかのみんなにも通用するはずだ」と思っている。

いまや主観と客観の近代の二分法は成立せず、「自分こう思う」ことは、「みんなも同じように思っているに違いない」と、現代の生徒は確信しているのです。

原因は、教師と生徒の関係が変化したことにあります。学校における教育は、教師から生徒への「贈与」から、消費社会の「等価交換」を模した通学の義務と知識との「取引」へと変化しています。

悪事に対しても、生徒は等価交換の考え方を採用します。自分の行った行為と下されるペナルティは釣り合う必要があり、想定されるペナルティが受け入れがたい場合は、事実そのものを「なくす」か「できるだけ小さくする」ことが、当然のように行われるのです。

一方の老人世代については、『老人たちの裏社会』(新郷由起著 2015年宝島社)にて、万引き、暴行、ストーカー、売春などが横行する不良化した高齢者が描かれています。

本のまえがきには、こう書き記されています。

半グレ化する不良老人が急増している。

高齢者の検挙数はこの20年ほど右肩上がりの傾向にあり、高齢者による殺人や暴行、性犯罪などの事件報道もまるで珍しくなくなった。

ほんの少し前まで、老人は善良かつ穏やかな人徳者として重んじられ、敬い、守るべき社会的弱者ととられられていた。

ところが、今や街では万引きをしまくり、激高しては暴力に訴え、勘違いを募らせてはシニアストーカーに転じ、「死ぬまでセックス」とばかりに色欲にハマるなど、「若者のお手本となる先人」どころか、老害を撒き散らすだけの暴走ぶりが目立つ。

老人達が変化した理由は、個々人の人格陶冶だけの問題ではなく、共同体が崩壊し、同時に共同体の価値観が喪失した社会において、老人達が文字通り「寿命の短い生命体」として考え行動したことにあります。

好々爺(こうこうや)という昔ながらのイメージは、共同体の価値観を体現するという無意識に刷り込まれた高齢者の使命感があってこそ、はじめて実現されるのです。

企業でも短縮化が進む思考の時間軸

企業もどんどん寿命の短い生命体になっています。

  • 陰で天皇と呼ばれ、他人の意見には耳を貸さず自分の考え方は絶対だと思っている社長がいる会社
  • お客様第一など建前で、本音では顧客の利益よりも自社の利益を優先する文化を持つ会社
  • 会社がどうなるかに興味はなく、自分がやりたい仕事を楽しく出来れば満足な社員

社会(集団)があって「個」がいるという考え方をする「共同体的価値観」に対して、まず「個」がいてそれが集団や社会をつくるという発想をする「市民社会的価値観」があります。

高度経済成長期までの日本企業は、共同体的価値観を強く持っていました。だから、家族や企業という単位以上に、敗戦国である日本という共同体を何とか復興させようと考える人が多かったのです。

その後1980年代に入り、消費主体としての「個」のアイデンティティが高まると、社員の価値観が共同体より個に軸足を置くようになりました。

さらにバブル崩壊後、低迷する業績を改善するために、個人を競争させ成果で格付けすることが良いと考え、企業も積極的に市民社会的価値観を導入しました。

しかし、共同体に市民社会的価値観を導入することが、論理的破綻を招いていることを多くの経営者は気付いていませんでした。

結果的に共同体の崩壊を招き、「個」に分断された経営者以下の構成員は、サイズ的にも時間軸的にも小さな生命体になったことで、3世代100年の世界観で考え行動することが難しくなったのです。

結果的に「やれること」を軽視し「やりたいこと」「やるべきこと」に重点的に取り組み、、自己中心的な行為が不祥事を招けば、臆面もなく「すぐばれる嘘」を吐いてその場しのぎをするという経営スタイルを最近よく目にするようになりました。

市民社会的価値観が支配する企業を共同体へ戻すことの難しさ

企業独自の価値観がまかり通り、世間の感覚とはズレた行為が不祥事を招くと、「閉鎖されたムラ社会がもたらした」などと解説するコメンテーターがいます。

「共同体的価値観が強くなり過ぎると、回りが見えなくなって問題が生じる」という指摘がしたいのでしょうが、よく考えてみると全く逆の話です。

共同体的価値観があれば、主観と客観の違いが自覚されているので、世間の常識とはかけ離れた行為があったとしても、「これは、一般的にはおかしなことだ」とか「うちは、この点については他とは変わっている」という認知を得られるはずです。

その認知があれば、何か問題が生じても、すぐばれる嘘を吐いてその場しのぎをすることはなく、事実は素直に認めるはずです。

しかし、市民社会的価値観が強くなり主客の区別がなくなると、実はとんでもないことをしでかしていたとしても、「こんなことは普通だ」とか「よそも同じでしょう」という主観=客観の世界になる危険性が出てきます。

長引くデフレ経済の中で企業業績を改善するため、「企業理念を明確にして共有する」「ビジョンを描いて将来イメージを掲げる」「商品はスペックではなくストーリーを持たせる」という方法がが流行っています。

この方法は、共同体的価値観を優先するという共通した特徴を持っています。

すでに市民社会的な価値観が支配的な企業組織において、いまさら共同体的価値観を単なる方便として持ち込んでも、深く根付くことはありません。

以前共同体に市民社会的価値観を導入して失敗したからといって、本来の共同体的価値観を復活させることは簡単ではありません。

戦略的なオプションやマーケティング的な手法としてではなく、人として企業として、どのような生命体を目指すのかという、かなり大きな課題が突き付けられているのです。

熟考ののちに、3世代100年の生命体として経営者個人としても企業組織としても生きるという真の共同体的価値観を最優先するという覚悟があって、はじめて理念やらビジョンやらミッションを共同体のエンジンンに据えることに意味が出てきます。

厳密に言うと、共同体的であるか市民社会的であるかは、二項対立した価値観ではなく、現実には人の中でも企業の中でも、双方の価値観が混在しています。

一番重要なことは、そうした事実に自覚的になり、自身の状態を適切に把握することです。

ただし、主客が区別されづらくなった市民社会的な価値観が優位な状況では、自らを客観視することそのものが難しくなっているために、自己分析がうまく進まない難しさがあります。

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