米国と韓国の建国の違いから学ぶ企業統治のあり方

経済・社会・政治
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建国時にすでに理想が実現されたアメリカ合衆国

11月8日にドナルド・トランプ氏が次期米国大統領に選出されてから、全米で反対デモが繰り広げられましたが、今は収束しているようです。

しかし、11月25日にはトランプ氏が勝利したウィスコンシン州で票の再集計が開始され、続いて12月5日には、ミシガン州での票の再集計を命じる地方裁判所の命令が出されるなど、全国民から祝福されて大統領になるとは言い難い状況です。

極東の地に棲まう日本人としては、「そもそも国民に受け入れられていない人物が大統領になって、米国は大丈夫なのか」とか「ずいぶん過激で攻撃的な発言をしているようだけど、日本にどんな悪影響が及ぶのか心配だ」といった漠然とした不安感を持っている人が多いのではないでしょうか。

でも、トランプ氏のような人物が為政者になることを織り込み済みなのが、米国という国なのです。

米国は、その建国の経緯において、歴史上前例が見当たらない唯一無二の特徴を持っています。

『アメリカ例外論 日欧とも異質な超大国の論理とは』(1999年 明石書店)という本の中に、米国の特徴を端的に言い表した次のような先達の言葉があります。

アメリカは一つの信条に基づいて建国された世界で唯一の国である。

この信条は独立宣言の中に、独断的でしかも神学的とさえ言える明快さで説明されている。(G.K.チェスタートン)

米国は革命を経て、一つのイデオロギーに基づいて建国された国です。

このイデオロギーの中には、良き社会とはどういう特徴を持つべきかについての一連の教義が含まれています。

米国のイデオロギーを具体的にあげると、以下の5つのキーワードに集約可能です。

  1. 自由主義
  2. 平等主義
  3. 個人主義
  4. ポピュリズム(人民主義)
  5. レッセフェール(放任主義)

米国は、移民たちの国です。英国における地縁血縁のしがらみを断ち切ってきた入植者は、最初に新たなナショナル・アイデンティティを築き上げる必要がありました。

土地と血の絆で結び付いた実態としての共同体を出発点としているのではなく、まず「共同体はいかにあるべきか」についての理念があり、その理念に契約的に合意した人々によって米国という共同体が構築されたのです。

つまり、米国は時間をかけて徐々に現在の米国になったのではなく、建国の当初から米国だったということです。

米国は、その起源において完成していたという特異性のために、成熟という概念に重きが置かれていません。なぜなら、米国においては、すでに理想が実現してしまっているからです。

トクヴィルが指摘した米国のデモクラシーの特異性とは

ここに、ある本に書かれている一節を紹介します。

アメリカのデモクラシーにおいて、民衆はしばしば権力を託する人物の選択を誤る。

しかし、そのような人々の手で国家が繁栄する理由はそう簡単には述べられない。

まず、民主国家において、支配者は他に比して廉直さと能力に劣り、被支配者は他より開明されており、注意ぶかいという点に注目しよう。

その本とは、アレクシス・ド・トクヴィルが著した『アメリカにおけるデモクラシーについて』です。

まさに現在の米国の問題点を鋭く指摘しているように思えますが、驚くべきことに、これは現在の米国の政治について書かれた文章ではないのです。

トクヴィルはフランス人の貴族で、1831年から32年にかけて、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの時代の米国を踏破して、この旅行記を書きました。

今から約185年前、トクヴィルが26歳のときのことです。

トクヴィルは、米国人が「人物の選択を誤った」実例として、当時のジャクソン大統領をあげています。

彼の全経歴に、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない。

また、連邦の開明された階層の多数も常に彼に反対であった。

彼を大統領の地位につけ、いまなおその地位を維持させているものは何か。

最後の文章の答えとして、トクヴィルは、米国の有権者が「戦功を過大評価する」ことで、「誤った人物を選択する」傾向があることを指摘しています。

ジャクソン大統領は、軍人出身であり、将軍として米英戦争においてニュー・オーリンズの戦いで勝利したことで名を馳せました。(ただしトクヴィル氏は、「この戦いはきわめて普通の戦闘であり、戦争のない国でしか長く語り草になることはない」と、こき下ろしています。)

歴代の大統領を見ると、初代ジョージ・ワシントンは陸軍総司令官として独立戦争を勝利に導いた有能な軍人だったし、第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、米西戦争で陸軍士官として奮闘し名誉勲章を授与されているし、第二次世界大戦後に第34代大統領に就任したドワイト・D・アイゼンハワーは、連合国遠征軍最高司令官、陸軍参謀総長、NATO軍最高司令官を歴任したバリバリの軍人でした。

過去の大統領全員が輝かしい軍歴を持っていたわけではありませんが、欧州では軍事的栄光を求める将軍たちを統治において排除すべき存在としているのに比べると、米国人は戦功をあげた人気者を統治者に据えることに抵抗がない傾向があることは間違いありません。

トランプ次期大統領については、健康上の問題を理由に、ベトナム戦争で5回もの兵役免除を受けていたという報道がありました。

戦功どころか兵役に就いたことすらない人物が大統領になれるのだから、米国はずいぶん変わったのかもしれません。

ただし、次期国防長官に「狂犬」の異名を持つジェームズ・マティス元海兵隊中央軍司令官を充てる方針を打ち出したのは、トランプ氏自身の軍歴の欠如を穴埋めするために、意図的に行われた人事なのかもしれません。

話をもとに戻すと、トクヴィルは、「米国人は統治者の選択を誤る」と指摘しただけに留まらず、鋭い視点から、さらに米国のある一面を見抜きました。

彼は、伝説的戦功とかフロンティア・スピリットといった聞き心地のよい物語に騙されて、有権者がうっかり間違った統治者が選出しても、破局的事態にならないように統治システムが制度化されているという米国の特質に気付いたのです。

米国民は、表層的な甘言密語に惑わされて、ときとして適性を欠いた統治者を選んでしまうという自分自身の愚かさを計算に入れて、統治システムを作り上げているのです。

「統治者は、常に有能で清廉実直ではない」というプラグマティカルな認識に立って、統治システムが最も配慮すべきこととして、最高の人物を見誤ることなく選出することではなく、愚鈍で能力に欠けた統治者が社会にもたらす悪影響をいかにして最小化するかに重点を置いているのです。

そのために、2つのことが徹底されていることをトクヴィルは指摘しています。

デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般的に長くない点にも注目しよう。

重要なのは、被支配者大衆に反する利害を支配者がもたぬことである。

もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。

一つ目は、現在にも引き継がれていることですが、権力の持続的集中を制度的に許さないことです。

「性悪説」に基づき、官僚は一定期間在職すると、権力を濫用して私利私欲をはかったり国民の利害と相反する行動をとることを想定して、大統領の交代とともに主要な行政府の官僚は総入れ替えになります。

現在、大統領が直接使命し議会の承認を得るポストが3,500から4,000程度あると言われています。

トランプ氏が当選直後に起ち上げた「政権移行チーム」とは、この大量のポストに誰を充てるのかを決めるのが大きな仕事の一つになっています。

二つ目は、統治者が選択した政策が適切であるかどうかは、どんなに理論的に正しかったとしても、結果を見てから検証するのでは時間がかかりすぎて現実的ではないので、「有権者が気に入るかどうか」で判断するという考え方です。

つまり、「太陽は東から昇る」ものですが、民衆の多くが「太陽は西から昇る」ことを主張するなら、そんな愚鈍な意見を退けるよりも、じゃ「太陽は西から昇る」ことにしたらいいんじゃないという、きわめてシニカルでクールな統治システムを米国は採用しているのです。

そういう意味では、米国の政治は、きわめて大衆迎合的なのです。

また米国人は、デモクラシーがスムーズに機能するためには、統治者に徳や才能がない方が望ましいと考えています。

なぜなら、下手に人格高潔で才走った統治者だと、万が一大衆と意見が合わくなった場合、統治者をその地位から追い払うには、そうでない場合より難しいからです。

有名な『独立宣言』には、こう書かれています。

いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。

もちろん、長年にわたり樹立されている政府を軽々しい一時的な理由で改造すべきではないことは思慮分別が示す通りである。

従って、あらゆる経験が示すように、人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられるものである限りは、耐えようとする傾向がある。

しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義務である。

出典:アメリカンセンターJAPAN『独立宣言』

米国は、英国からの支配を脱して、新しい国家を創設するにあたって、英国政府に対して持っていた不信感を建国後の自国政府に対しても引き継いだのです。

つまり、米国は民衆の同意を得られない政府は、破棄してよいことを原理とする国家なのです。

トクヴィルも前掲書の中で、こう書いています。

アメリカでは多数の力が優越するばかりではなく、抗いがたいものになる傾向がある。

多数の道義的権威には次のような理念にもとづいている面もある。

個人よりも多数の集合に開明と英知とがあり、その意味で、立法者の数がその選択よりも重要だと考える。

こららのことから分かるとおり、米国の統治システムが重視していることは、「いかに有効かつ賢明に機能して、国民に最大利益を与えられるか」ではなく、「リスクをヘッジする」ことの方なのです。

なぜなら、米国は理想の国をすでに達成した状態からスタートしたからです。

したがって、それ以後、米国という国家をどのように改善していくかは課題になり得ません。もし改善の余地があるということになると、米国は理想の国家ではなかったという矛盾に陥るので。

米国の建国の父たちは、独立とともに築き上げた初期条件を維持し続けるためには、統治システムのあり方が、「少数の賢者が支配する」姿よりも「多数の愚者が支配する」姿の方が有効であろうという老成したプラグマティックな判断をしたのです。

こういう文脈から見ると、今回当選後に反対デモが起きるトランプ氏のような人物が大統領に選出されたとしても、米国の統治システムは、「そんなこと想定内で織り込み済み」だということになります。

しかし一方では、米国民の多数が同意すれば、とんだ愚策で諸外国にとってはきわめてマイナス影響が出るような政策でも、理詰めの説得など通用せずに実行に移される可能性が高いという危険があります。

国家の理想像を持たずに建国された韓国の憂鬱

朴槿恵大統領の不祥事で大揺れ状態の韓国ですが、米国の統治システムを比べてみると、正反対の思想で作られていることが分かります。

つまり、韓国の統治システムは「リスクヘッジをすること」よりも「ベネフィットを最大化」することを目的としているのです。

だから、大統領の任期中は、訴追ができなかったり、他者が辞任に追い込むことが難しいという制度になっています。

こうした韓国の統治システムの性格を決定している要因は、建国のときに理想を実現していたかどうかが強く影響していると思います。

韓国の場合、建国の日すらハッキリしていません。

1919年4月11日に設立された上海臨時政府だと主張する人がいれば、第二次世界大戦後に米国の統治を経て韓国樹立の宣布式が行われた1948年8月13日だとする人がいます。

でも、光復節として8月15日を祝日に制定しているのが現実です。

韓国の人は、1945年8月15日、日本の敗戦をもって、日本の統治から開放されて「独立」したという物語を採用したいのですが、実際のところは、1945年8月15日に朝鮮総督府から自治権を付与されたのみで、その自治権も9月8日に米軍が進駐してくると解消されています。

9月9日には、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは南朝鮮に対して米国による「軍政」を布告して、ソウルの街には星条旗が翻がえることになりました。

そうして、3年後の1948年8月13日に、米国の軍政下にあった南朝鮮が「独立」を果たしたのです。それにも関わらず、1945年8月15日に日本から独立したという自らが信じたいストーリーに固執するあまり、光復節を2日づらして8月15日にしています。

韓国の建国に関わる話は、テーマが大きく逸れるので、ここまでにしますが、何が言いたいかというと、韓国の悪口ではなく、建国にあたっての事実関係までを歪めている以上、韓国は「理想の国家」像が全くといっていいほど描けていないんだろうな、ということです。

もう少し厳密に言うと、「虚としての理想」は山ほどあっても「実としての理想」が皆無に近いということになります。

当然、現在の韓国では理想の国家は実現できていません。そもそも理想像が確立しているかどうかも怪しいですし、仮にあったとしても「虚」でしかないので、実現しようがありません。

現在の韓国の姿は、「誤った人物」を統治者として選出し、「権力を集中」させ、私利私欲に走った為政者と取り巻く官僚が権力を濫用して「不正」が横行している、と端的に言い表すことができます。

建国の当初から「理想の国家」を実現することなど、後にも先にも米国しかなし得ていないことなので、「米国が偉くて韓国が偉くない」といった単純な話ではありません。

ただ、韓国を見ていると「無限の可能性を信じて、未来に向けて、理想の国家を漸次的に作り上げていく」という考え方は一見美しく思えますが、「ベネフィットを最大化すること」に目が行くあまり「リスクをヘッジすること」が等閑になると、改善どころか改悪という結果の積み重ねにしかならない危険があることに気付かされます。

理想像の構築と同時にリスクヘッジの仕組みを企業統治に組み込む

すっかり政治的な話になってしまいましたが、最後に企業経営に結び付けると、国と似ていて、最初に「理想の企業像・経営」というものが明らかになっているかどうかで、構築される統治システムが当然変わってくることになります。

最初に理想像があることが良いか悪いかは別として、せっかく理想像があるのに、それを蝕むリスクをヘッジする仕組みを作っていなければ、遅かれ早かれ理想像は昔話になってしまうでしょう。

反対に、「昨日より今日の会社をより良くする」という漸進的な企業づくりをするときに、無能で不徳な人物に統治を委ねてしまえば、当たり前のことですが、期待した結果は得られないはずです。

先ずは、自分の会社にとっての理想像は、すでに確立されているのかどうかというチェックを行い、次に、その違いに応じた統治システムが経営にインストールされているのかどうかを見極めることをしてみてはどうでしょうか。

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