拡大指向を捨て量より質を追求した経営へ舵を切るべきワケとは

経済・社会・政治
経済・社会・政治
この記事は約6分で読めます。

3.11東日本大震災から得た最大の教訓とは

東日本大震災発生から、早いもので10年が経ちました。

「十年一日のごとし」と言われるくらいなので、10年という歳月は思いのほか短く感じられます。

でも、この大震災は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」「雨晴れて傘を忘る」とばかりに、忘却をして済ますことができない出来事です。実際のところ、復興庁のサイトを見ると、10年を経てやっと第1期復興・創生期間が終了し、2021年から第2期復興・創生期間が始まることになっています。

そこで、東日本大震災発生という未曾有の災害から、私たちは何を学んで、この10年間の中で何を実践してきたかについて、節目にあたる時期に振り返ってみます。

阪神淡路大震災が1995年に発生し、2011年には東日本大震災が発生した事実を鑑みれば、大震災は、起こるか起こらないかという確率の問題ではなく、いつ来るのかというタイミングの問題であることを誰も否定できないはずです。

それにも関わらず、起こるか起こらないか、起こるとすれば何パーセントかといった確率の問題として、私たちの多くは未来を読み替えていました。

その証拠は、福島第一原発の事故発生の事実だけを取り上げても十分なはずです。

確かに、「激甚災害がいつ起こるのか」と問われれば、その答は「わからない」です。

では、「わからない」問題に私たちはどのように向かい合うべきなのでしょうか。

「わからない」けれど、確実に来るという事態にどう対処すべきかについて考えることを、先延ばしにしてはならない。

東日本大震災を通じて会得したに違いない、最も大きな学びとは、上記のことに尽きます。

そして、この学びが与えた具体的な取り組み課題は、次の2つになります。

  1. いつ起きても対処可能というリスクヘッジを行っておくこと
  2. 何があっても受け止めるという耐性を備えておくこと

さらに、この取り組み課題に着手するにあたって、自らに投げ掛けるべき「正しい」問いは、以下の一つに絞り込まれたと言ってよいでしょう。

私たちは、社会や会社や個人の各レベルにおいて、これまでのやり方を信じその延長線でやっていけるのか、それともこれまでとは異なるやり方を見出さなければならないのか。

消費者の拡大に頼ったこれまでの経営の限界

災害に備えて社会や生活の常識を疑うだけではなく、ビジネスや企業経営の場においても、これまでのやり方を見直し新たなやり方を確立することが喫緊の課題になっています。

では、これまでのやり方とは、どういうものだったのでしょうか。

1990年代以降に著された経営書には、「競争優位の戦略」という言葉が溢れました。競争優位とは、最短距離で目的を達成するための業界内における位置取りをすることであり、限られた経営資源をライバルとの競争に対して効率的に投下することで、相対的優位を得ることです。

本来、商売というのは、商品をつくり、販路を整備し、顧客の信頼を獲得し、固定客を着実に増やしていゆくことでしか成立しない営利的行為です。

ドラッカー氏が「利益の源泉は顧客の創造を通じてしか、なし得ない」と語ったように、商人が利潤を得るためには、必ず商品や販路や顧客の信頼といった迂回路を経なければなりません。

顧客を創造するには、商品に付加価値を付ける必要がありますが、卓越した技術だけがそれを可能にするのではなく、作り手の誠意とか手間ひまといったものなくしては本来の付加価値が商品に宿ることはありません。

つまり、価値とは価格のことではなく、極みとかこだわりといったものが、微細ながらも差異となって商品に結実したものであり、その微細な違いを感知することができるところまで育まれた顧客との間に生まれるものなのです。

ところが、残念なことに、作り手と顧客の間の蜜月関係は長くは続きません。

どこかで消費はその飽和点に達し、それ以降作り手は、ただひたすら消費への欲望を喚起することを目的とした差異の創造へと邁進していくことになるからです。

その結果、作り手、あるいは企業と顧客の関係性は、どんどん非対称へなっていきました。

作り手が価値を生み出し、顧客がその価値を受け取る返礼として代価を支払う。作り手が顧客の満足を喜び、顧客が作り手の労苦に感謝するという個別的かつ感情的な関係性は、今日の量を追いかける時代のなかでは希薄にならざるをえません。

経済成長を推進するための大量生産・大量消費の時代にあっては、作り手にとって顧客とは数であり記号でしかなく、投下した資本の回収、つまりは利潤だけがクローズアップされることになります。

だから、現在の企業活動のなかでは、いつも消費するものとしての顧客を探しています。

日本は、高度経済成長期に自国民を消費者とし、つぎにアメリカにその矛先を変えてきました。

ご存じのとおりアメリカ人は、借金をしてまで世界中の消費を請け負い、つには莫大な輸入超過の国になりました。

でも2008年のリーマン・ショック以後は、もはやアメリカは世界の消費を受けて立つ体力を失っています。

そこで、次は中国をはじめとする新興発展国へと目を向けているのが現状です。

そこには、かつて白物家電や三種の神器が飛ぶように売れた、高度経済成長期の日本やアメリカのような市場があるからです。

特に最近では「インバウンド需要」という言葉のもとに、中国人観光客を主とした「爆買い」に対応することに躍起になっています。

しかし、中国経済の凋落傾向がハッキリ出てきたなかで、つぎはインドかアフリカを新たな見込客として、これまでと同じことを繰り返していくのでしょうか。

いずれにしても、世界を一巡してしまえば、もう地球上に新たなフロンティアとしての消費地は残らないことは、今からわかっていることです。

グローバリズムという聞き心地のよい言葉に吊られて、消費地を拡大しながら、大量生産・大量消費の時代が永遠に続くという考え方には、宿命的に無理があるのです。

これからの時代の企業経営とは

良いか悪いかという判断は脇に置くとして、日本経済は規模の拡大という意味での成長は望まない、と言うか望めない時代になったと考えておくべきでしょう。

日本国民が叡智を結集して、粉骨砕身努力をしたうえで、運に恵まれれば、あと何年かは統計上GDPが伸びることは不可能ではないでしょう。

でも、冒頭に述べたことを思い出してください。

「わからない」けれど、確実に来るという事態にどう対処すべきかについて考えることを、先延ばしにしてはならない。

だとすると、いつまでもプラス成長するためのだけの努力だけをし続けて、確実にやってくるマイナス成長という事態から目を反らすことは、3.11の学びを活かしていないことになります。

こう言われると、無意識に新自由主義的な考え方に洗脳されてしまっている私たちの多くは、何かもの悲しい気持ちになります。

でも、成長の目的は成熟であるとするならば、日本の社会はそのための条件を満たしているとも言えます。

実際のところ、経済の成長が国民の豊かさを生み出すと信じて続けてきた結果、1億総中流が崩れ、富の偏在が起きて、大多数の人は将来に不安を抱えた貧乏人になってしまいました。

だから、成長が望めないからといって不安がる必要はなく、むしろ勇気を持って縮小均衡に舵を切った方が、個人のレベルでも今よりも経済的にも精神的にも豊かになれる可能性は高いのではないでしょうか。

美と健康において、アンチ・エイジングに感心が高いのは、現在の日本の風潮ですが、社会全体としてアンチ・エイジングに拘ることは、大人に成りきれないピーターパン症候群の集まりであることを意味します。

多くの犠牲を伴った東日本大震災を契機に、これまでの考え方とやり方を本腰を入れて変えようという成熟した姿勢を持つ方が、もっと増えて欲しいと切に思います。

シェアする
TAISHIをフォローする
経営メモ