第三者的視点で自分や企業を客観視することが難しい理由とは

経済・社会・政治
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第三者とは自分以外であれば誰でもいいわけではない

企業に不祥事が発生したとき、第三者委員会を立ち上げて事実を明らかにするとともに、再発防止に向けて必要な施策を提言してもらうことがお決まりのパターンになっています。不祥事に対処するときだけに限らず、戦略の大幅な転換やブランドのリニューアルを図るときなど、企業が大きな変革を起こそうとするとき第三者的視点が求められます。

しかし、不祥事の際に設置された第三者委員会のメンバー構成が現経営者のお手盛りであることが珍しくありません。また、個人レベルの話をすれば、人生に思い悩んだときに相談する相手を誤ると、意味不明な助言をされて、かえって混迷が深まることがあります。つまり自分を見つめ直すための第三者とは、自分以外の他人であれば誰でもいいというわけではないのです。

  • 自分自身の中にも第三者的視点を持つためにどうするか。
  • 第三者として他人を充てる場合に適切な選択基準とはなにか。

上記の問いに対する適切な答を持つことが、第三者による厳しい目を得るために重要なことになります。

無意識に言動を支配するメンタルマップの存在

国際政治学者という肩書きの舛添要一氏は、ツイッターを中心に政治問題や社会問題について積極的に情報発信を行い、最近ではすっかり良識人として振る舞っています。

しかし、2016年に東京都知事として政治資金や歳費の公私混同問題を起こして自ら辞任をしている過去があります。

問題が表沙汰になったとき、舛添氏は自らの口で説明をしたり、自分自身で是非を判断することを放棄して、「第三者の厳しい目で見てもらう」の一点張りで押しとおしました。

そのため、舛添氏の旧知の弁護士二名による調査が行われましたが、舛添氏の意向に沿った結論ありきの報告が行われたことで、とても第三者による厳しい目による精査とは思えないと感じる人が多く、結果的に舛添氏は辞任に追い込まれました。

この一件では、政治資金規正法という実定法において違法性がないことは、あえて検事出身の弁護士の口をもって言わしめなくても分かっていたことです。

むしろ、法律に先立つ自然法の次元において、その人物が「なにを当然と考え、なにに価値を置いているか」という行政の長としての品格について問われていたのです。

それにも関わらず、あえてそこを曖昧にし論点をずらす戦術をとったことが、個人的には舛添要氏の最大の誤りだったと思います。

とは言うものの、これは私の中の「当たり前」とか「常識」に照らして得られた一つの信憑がもとになっています。

それは、「舛添氏ほどの秀才が、私ごときが指摘している問題の構造に気付いていないはずはない。だから、彼が自らの口で是非を語らず第三者に丸投げするのは、逃げ切るための方便に違いない」というものです。

でも、舛添氏は「心の底から何ら問題はないと考えていて、弁護士がそれを証明してくれるに違いない」と本気で信じていたのかもしれません。

つまり、舛添氏にも私にも、内容の是非は別にして、無条件に「当然だ」と考えている思考のベースがあるという事実に目を向ける必要があります。

ブルデューの5つの理論

フランスに文化人類学者のピエール・ブルデュー(1930~2002)という方がいました。

彼は、人々が生活の中で絶え間なく行う仔細な意思決定は、何一つとして無意味なものはないと指摘し、何が美しいか醜いか、何が悪趣味で粋でトレンディかといった私たちの認識が、人々(やモノ)を心理的および社会的グループに分類すると考えました。

そのために、常に「第三者的視点」を維持して、人間の活動の観察と傾聴に徹し、社会の構成員が見落としがちな隠れたパターンを探すことに努めました。

その結果を5つの理論としてまとめました。

人間社会はある種のパターンや分類システムを生み出す

人々が暮らす物理的および社会的環境を「ハビトゥス」と呼び、このハビトゥスのパターンは、私たちの頭の中にあるメンタルマップあるいは分類システムを反映すると同時に、それらを強化する。

ハビトゥスはエリート層の地位の再生産を促進する

エリート層は、既得権益を大いに得ているために、現状維持することが望ましいから、なんとしても文化的地図や規範や分類法を強化しようとする。

言い替えると、エリート層が権力の座にあり続けるのは、リソースつまりブルデューの表現を借りれば「経済的資本(カネ)」を握っているからだけではなく、「文化的資本(権力と関わりの深いシグナル)」も掌握しているからなのです

「党首なんだから〇〇をしてもいい」、「国会議員なんだから〇〇をしてもいい」、「東京都知事なんだから〇〇をしていもいい」、という文脈で語られる「〇〇」に入る言葉に、その人間が持つハビトゥスが色濃く反映されています。

そう言えば、舛添氏が辞任した後の都知事候補者の一人として、元大阪市長の橋下徹氏が注目されました。

橋下氏は、今回の舛添氏の公費の使い方や政治資金の使途について批判的なコメントをしていますが、大阪府知事時代の2010年に、公私混同と指摘された過去があります。

日本代表選手として活躍した遠藤保仁選手(ガンバ大阪)に「感動大阪大賞」を贈った際、府庁内の知事室で自分の子供3人を遠藤選手に引き合わせていたからです。

このとき、橋下氏は、「知事になると、子供を自由に連れていけない。これぐらいは府民に理解してもらえる」「知事ファミリー(家族)として祝福するのは当然」と語りましたが、そこには、明らかに「大阪府知事という仕事は大変なんだから、多少の役得があっても当然だ」という意識があります。

これは、ブルデューの2番目の理論を裏付ける言動です。知事職にある人間は、有名人や要人と、自らの家族を含めて交歓することが出来るという「文化的資本」を行使しているからです。

舛添氏も、海外に行ったときは、いついかなるときにも要人の訪問に備えるためにスィートルームへの宿泊が必要だという説明をしていましたが、これは橋下氏が持っているのと同じ「文化的資本」に基づいた言動です。

そういう意味では、舛添氏も橋下氏も著名な政治家という同じ「エリート層」に属する住人です。

文化的およびメンタルマップはエリート層を含めて誰かが意図的に作り出すものである

ハビトゥスは意識的に考えられたというより半意識的な本能から生まれ、私たちの社会的パターンを反映させるだけではなく、それを深く浸透させ、自然で必然的なものに思わせる。

ある階層や地位や集団にとって都合の良いことを、そこに属する構成員が意識的にも無意識的にも作り上げて、それを信奉し日々実践をします。

すると、ますます身体に染み付いて離れなくなり、最後は「自分の常識が、世間の非常識」になっていることに気付かず、何か不祥事を起こしても、「私は悪くない」と言い張り、恬として恥じない人が現れる原因を、3番目の理論は説明しています。

社会のメンタルマップで本当に重要なことは、公かつ明白に語られていること以上に、語られていないところにある

社会的沈黙は、何かを隠蔽しようとする意図的企てによって生じるのではない。むしろ、ある種のトピックは、退屈、タブー、自明、あるいは非礼であるため、無視するのが当然と見なされる。

どんな社会でも、おおっぴらに議論されるトピックがあり、それについては見解の相違が許容されるが、その外側には、決して議論されない多くのトピックがあります。

ブルデュー曰く、「イデオロギーによる影響の最も強力なかたちは、一切言葉を必要としない、共謀的沈黙によるものだ」

私たちは、あまりにも当然だと考えていることをわざわざ取り上げて、議論をすることはありません。

だから、何かを本質から変えるときに必要なのは、その当然だと思っていることを変えることなのに、議論の俎上には決してあがってきません。

舛添氏にしても、都民が本当に知りたいことに対しては、決して語ろうとはしません。「第三者の厳しい目」として任命された2名の弁護士も同様です。

この「共謀的沈黙」こそが、舛添要一氏が腹の底に持っているイデオロギーそのものであることは間違いありません。

企業再生や企業改革の現場においても、議論を尽くしたつもりで、いざ実行するという段階になると、思ったようにことが進まないという事態が頻発します。

なぜなら、必ずこの「共謀的沈黙」による抵抗が発生するからです。結局のところ、企業の生まれ変わりや変容が成功するかどうかは、共謀的沈黙の次元まで踏み込めるかどうかにかかっているのです。

人は必ずしも自ら受け継いだメンタルマップに囚われる必要はない

人は、物理的および社会的環境の産物であり、文化的習慣が言動を規定する力は強いが、絶対的ではない。

5番目の理論については、両極端の考え方が存在する世界です。

例えば、同じフランス人哲学者のサルトルは、人間の自由意思を絶対視して、思い通りに考え行動する可能性を強調しました。

一方で、構造主義の祖であるレヴィ=ストロースは、人間は継承した文化的パターンから逸脱することはできず、環境の産物になるしかないと、サルトルとは正反対の主張をしました。

ブルデューの主張は、その二人の中庸をとっています。

私見では、完全なる自由も、完全なる宿命も極端な見方なので、変えられないものを受け入れる勇気と、変えられるものを変える賢さを持って生きるというブルデューの考え方に与したいと思います。

自らのメンタルマップにまで踏み込んでいなかった舛添氏

ブルデューの理論は、今回の舛添氏の言動を理解しようとするときに、大きなヒントを与えてくれます。

舛添氏は、自らの縛られている文化的パターンに自覚的になり、その馘(くびき)から逃れるという抜本的なところまで踏み込んでいません。

今回の問題が生じた源は、まさにそこにあるはずなのに、いくら口先で謝罪をしたところで、自身のメンタルマップに言い及ばない限り、彼の言う反省とは中味の乏しい空虚なものにならざるを得ません。

だから、「手続きの公正さを重視することに価値がある」「違法性がないことを証明することに意味がある」「迅速に調査を完了することが優先される」というこれまで通りのメンタルマップに従ったゆえに、小渕優子元経済産業大臣が政治資金規正法違反を疑われた際に第三者委員会の委員長を務めてシロ判定をした弁護士を「第三者の厳しい目」として選任したわけです。

真の成長や成熟とは複数の視点を持てること

ここまでの話で明らかにしたかったことを整理します。

一つ目は、人間は環境の産物としての逃れがたい一面があり、自由に発想をしているつもりでも、自らが属する集団とか共同体とか階層の文化的習慣に縛られていることです。

確かに、自らの指針となっている文化的パターンについて考え、疑問を持つことなど一切ない人が多いのが事実です。

そして二つ目は、反対に、人間はこれまで培ってきたメンタルマップとは異なる社会的地図を手に入れる可能性を持っているということです。

一つ目の指摘において重要なことは、私たちが環境の産物であるか否かという事実ではなく、たいていの人は、自らの指針となっている文化的パターンについて疑問を持たず、自らが環境の産物である可能性を探らないという意味で、無批判な生き物であるということの方です。

二つ目の指摘において重要なことは、人間は主観的な世界観から脱して、第三者的視点からも事物を眺めることができる可能性を持っているという事実です。

それが、人が成長するとか成熟することの可能性を担保しているとも言えます。

なぜなら、成長の真の意味とは、古い考えを新しい考えで塗り替えていくことではなく、常に複数の視点から一つのものごとを見ることができることだからです。

だから、そのために最初に必要な関門は、私たちは、自らの使っている文化的パターンや分類システムを自覚することになります。

経営にも当てはまるブルデューの5つの理論

このことは、人生を生きることだけに留まらず、企業を経営していくことにも同様に当てはまります。

小さな改革や、現在のやり方の効率を高めるための改善であれば、経営者自らの頭で考え抜けば済むこともあるだろうし、場合によっては、その道のスペシャリストに依頼すれば、必要な正解が手に入るでしょう。

でも、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などを革命的にもしくは劇的に揺るがすほどの変化(=パラダイムシフト)を起こす場合には、自分自身がタコ壺の中にはまり込んでいることを認め、無自覚に縛られている文化的習慣や価値観について明らかにしていくことが避けられません。

こう言ったところで、そんなパラダイムシフトなんか、一握りの企業や人に関係がある話で、うちには関係がないと思っている人が多いはずです。

しかし、現在から将来に向けての社会では、一昔前には大多数の人と企業には無縁だったパラダイムシフトが、嫌が応でも身近なものになって迫ってくるはずです。

その時に、「自分のことは自分では分からない」以上、適切な「第三者の厳しい目」を導入することが有効な打ち手になるのです。

「第三者による厳しい目」を実現するために排除すべき専門家

「第三者の厳しい目」を導入するためには、狭い職務分野や特定の業界の専門家を最初に除外する必要があります。

なぜなら、専門家ですら(むしろ専門家ほど)自らをとりまく世界を堅牢なタコ壺によって秩序づけるあまり、全体像を見通すことが出来ないからです。

先ずは自分が特定のメンタルマップに囚われていることを受け入れる

企業においては、先ずは経営者自身が、自分がはまり込んでいるタコ壺を明らかにする勇気を持つことです。

ただし、「現状を打破する」「パラダイムシフトする」ということを誤解してはいけません。

それは、いろいろな対策を打つことではなく、先ずは経営者の心の持ち方にあるのです。好奇心と他者の言葉に耳を傾ける寛容さを持てるかどうか。

しかし残念ながら、万事うまく行っているときには、誰も自らが縛られている文化的習慣とかタコ壺について気にすることがありません。

売上が激減した、資金繰りが詰まった、大きな不祥事が発生した・・・ こうした問題が発生したとき、経営者の多くは、慌てて「厳しい第三者の目」と騒ぎ出す。

だが「厳しい第三者の目」を取り入れて、現在のメンタルマップの妥当性を検討するタイミングは、危機が発生したときではない。

成功を謳歌しているときこそ、それが重要なのです。

それが、黒字企業の経営者が取り組むべき最大の課題です。

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