正しい目的を持った企業改革ほど失敗に終わる理由とは

人・組織
人・組織
この記事は約6分で読めます。

What探し以前に経営者として「どうありたいか(=Be)」が重要

現在の日本のように、構造的な変化によって成長がストップすると、思考の入口が「何をするか(=What)」にあるリーダーシップは機能しなくなります。

20世紀のように市場環境が良かった時代は「何をするか」が明らかであれば前進することができたのは間違いありません。

その時の癖で、21世紀になった現在でも強引に「やるべきこと」を見つけようとする人が多いのですが、なかなか上手くいかないはずです。

なぜなら経済情勢や顧客の意識といった外部環境が大きく変化しているときに、適切なDo(すること)を見出すためには、先ずは価値観の見直しが必要だからです。

たとえば、売上至上という価値観、シェア争奪という価値観、顧客との関係性に対する価値観、組織と個人の関係性に対する価値観・・・

手っ取り早く「やるべきこと」を見つけようとしても、Doの最適案を探索するためには、ゼロベースでの対話が求められます。その対話とは、経営者が自分自身と向き合う対話から始まります。

真面目な経営者ほど「少なくとも自分は、やるべきことを必死にやっている」という自負がありますが、あえて厳しいことを言うと、それは惰性的な努力に過ぎません。

むしろ努力をしているからこそ、努力が言い訳になって、自分自身を見つめ直す根源的なプロセスが置き去りにされやすいのです。

企業理念の重要性を説く専門家は世の中にたくさんいますが、組織を構成する人に焦点を当てて、一人ひとりのBe(あり方)まで取り上げている会社がどれだけあるでしょうか。

その中でも経営トップである社長のBeは、特に重要になります。

これまでの組織変革に向けたコンサルティングの限界も、このプロセスを重視してこなったことに一因があります。

短気な人にとっては、悠長な話をしているように思えるでしょうが、詰まるところ、人が変わらないまま方法だけを変えても行動が伴わないのが現実です。

「急がば回れ」とは、今日の経営にも当てはまります。大きな変化が進行している今の時代だからこそ、経営者自身が原点に戻って「何をするか」ではなく「どうありたいか」を見つめ直すことが必要なのです。

気付いている者として正しさを振りかざしてはいないか

「何をやるか」が分かっている(つもり)の経営トップは、具体的な方針を立て指示をしているのに、思い通りに動かない部下に対して不満を持っことになります。

「答を見つけにくい時代だということは分かっているが、少なくとも私はここに一つの答を持っている。なのに・・・」

でも、人は正しいことを言われたからといって、それを素直に受け止めて行動に結び付けるほど純粋無垢な生き物ではありません。

社長が投げ掛ける正論は、社員が抱く嫌悪感や疑念にかき消され、彼らなりの思い込みによる判断と行動が生まれます。

かつて、こんなシーンに遭遇したことがあります。

新たな企業づくりを模索するために、全社員との個別面談をしていたときのことです。

その日はある支店を訪問し、事務系の社員から順番に面談を進め、次に古参の営業課長T氏との面談となりました。

今回の面談の趣旨を説明し、「あなたが考える会社の課題はどこにあるか?」という問いかけをしました。

すると彼は、白けた表情でこう言ったのです。「社長は、頭が良くて何でも良くご存じなんだろうから、私なんかの話を聞く必要はないでしょう」

一瞬の沈黙の後、あらためて彼に発言を促しました。

ても彼は、「特に話すべきことはありません。社長が考えるとおりに進められたらいいんじゃないですか」と語ったあと、口をつぐみました。

会社のような組織で、変革の必要性に気付いた人は、まだ気付いていない多くの人に対して、「自分こそは正しい」という思いを抱きます。

その思いは、自己アピールや虚栄心から来るものではなく、会社を良くしたいという思いに根ざしているので、主張することへのためらいが少ないものです。

その思いを、どこでどのように主張するかは個人差があるものの、正しいことを言っているという自負は、常に気付いた人を力強く支えています。

その結果、気付いた人が正しいことを主張し、それに気付いていない人々に弾き返されるという現実に直面するのです。

営業課長T氏との個別面談でのやり取りは、「気付いている」つもりの人が振りかざした「正しさ」が、気付いていない人々の壁に跳ね返された典型的な例と言えます。

みんなの願望に火を付けるビジョンと理念になっているか

企業の中だけに留まらずに、世の中において、人の行動はすべて価値観にもとづく信念から生まれてきます。

イスラム過激派によるテロに対するキリスト教を信奉する自由主義国家側の報復という負の連鎖が途切れることがありませんが、イスラム過激派の思想の根底には、原理主義に根ざした独自の価値観があります。それがあらゆるものごとの判断基準を作り出し、その独自の基準に従ってテロリズムという行動が起きてきます。

このようなキリスト教世界とイスラム教世界の一部において不毛な争いが続く状況を対話の観点からとらえ直すと、正しい(と思っている)主張に底流する信念が、立場を異にする相手への理解を妨げていると言えます。

企業内の対話と国際的なテロリズムは、規模も構造も違うことのように思えますが、変革のための正義を説くことに必死で、相手に何が届くかについて想像力が十分及んでいないという意味では共通点が多いのです。

だから「自らの正しさを信じ、いかに周囲の間違いを正すか」ではなく、「先ずは違いを認識することを優先する」ことが、いずれの場合でも重要です。

ビジョンや理念づくりで陥りがちな「正しさ」へのこだわり過ぎ

全社のベクトルを一致させて組織の持つ力を高めるために、ビジョンや理念の共有が企業において重要だと思われるようになって久しくなります。

ビジョンを描いたり理念を紡ぐうえで最も大切なことは、正しかどうかではなく、みんなが本気になれるかどうかです。そして、本気とは他人の正しさの主張の中には無く、個々人の願望や欲求から生まれてくるものです。

こんなことは、聡明な経営者であれば、言われなくても分かっていることですが、多くの企業では、どうしても正しいビジョンや正しい理念を考えたくなります。

その主たる原因は、「社員の望みと組織の利害は相反するものであり、一人ひとりの願望を引き出すことは、無秩序への扉を開く」という恐れではないでしょうか。

しかしその一方で、多くの企業で社長やマネージャーは、社員や部下のやる気を引き出そうと必死です。

額縁に入れて飾られた絵空事の理念やビジョン、大きな模造紙に書いて張り出された目標、報奨金、危機感を煽る訓辞、見え透いた褒め言葉・・・

このような相手の中で起きる変化を待たずに、変化を促そうと操作に走る姿勢は、社員に対するものだけに留まらず、顧客に対しても拡大していきます。

でも、押し売りはいつの世でも失敗に終わるものです。

青臭い書生論に聞こえるかもしれませんが、これからの時代の経営においては、DoよりもBeを考え抜くことの重要度がますます上がっていきます。

だだし、それは競争に勝つためでも規模を拡大するためでもなく、独自の価値を顧客へ提供する途を選んだ動的に安定した競争しない企業づくりのため、というただし書きが付きます。

これを機会に、経営トップである自分自身のBe(あり方)について、先ずは問い直しでみてはいかがでしょうか。

シェアする
TAISHIをフォローする