現れては消えていく人事給与分野での方法論
経営における各分野で、新たな方法論が生まれては消えていきますが、財務、マーケティングなどの分野に比べて、人事給与分野の流行廃りのサイクルははるかに短いと思います。
人事分野においては、職能給、コンピテンシー、360度評価、裁量労働制、高度プロフェッショナル制度、ジョブ型などなど、「これでうまくいく!これからはこのやり方だ!」というかけ声のもとに、たくさんの方法論が生まれては消えていくことが繰り返されています。
その中の代表格として成果主義をあげることが出来ますが、年功序列主義、能力主義という過去の大きなトレンドの次にくるものとして成果主義が導入されましたが、日本では上手く根付いているとは言えない状況です。
成果主義が日本に根付かない一般的な理由とは
成果主義が日本に根付かない理由として、いろいろな分析がされていますが、最大公約数として意見をまとめると次のようになります。
- 個人の成績優先で仕事が行われる状況を招くことになりチーム全体の生産性が落ちる。
- 最長でも1年という短期間での成果を求められるため、新事業などの中長期的な取り組みが疎かになる。
- 何を成果とするかのすり合わせ作業と実際の評価作業の負荷が大きくて疲弊してしまう。
この分析結果は、おそらく正しいのだと思いますが、ここでは別の視点から成果主義が日本で根付かない本当の理由について考えてみます。
米国のCEOも日本のサラーリマンも自分は給料の貰いすぎだと思ってはいない
「給料っていうのは、まったくもって不公平だ」と、サラ-リーマンとして給与をもらっている人はほぼ全員思っているはずです。
つまり、自分のもらっている給料と、実際の仕事の大変さの対応関係がおかしい。
自分はこんなに働いているのに比べて、あの人はたいした仕事もしていないくせにもらい過ぎだ、という不満を多かれ少なかれ持っているはずです。
どんなに最新の人事給与制度を取り入れている企業においても、社員の間からこうした不満が消えることはありません。
しかし、サラリーマン諸氏が抱いているその思いは、残念ながら的外れです。
給料には公平も不公平もありません。あるのは、給料が安いという事実だけです。
先ずは、彼岸の国アメリカの話から入ります。
2017年のアメリカのCEOの報酬トップ5は以下のとおりです。
社名 | 代表者 | 報酬額 |
Snap Inc. | エヴァン・シュピーゲル | 5.04億ドル |
KKR & Co. | スコット・ナットール | 2.13億ドル |
KKR & Co. | ジョゼフ・バエ | 2.13億ドル |
Tesla Inc. | イーロン・マスク | 1.50億ドル |
Alphabet Inc. | サンダー・ピチャイ | 1.44億ドル |
ランキング1位の金額が500億円を超えているのを見ると、かつて日産自動車でカルロス・ゴーン氏が裏金まで駆使してゲットしたかった25億円がかすんで見えます。
しかし、トップの報酬額として500億円以上を得たエヴァン・シュピーゲル氏は、もう十分に報酬を手にしたとは思わないはずです。
さらに業績が良くなれば、役員報酬改定を株主総会にて動議するでしょう。
500億円の報酬を得ている人にしてそうなのですから、日本の一般のサラリーマンの中で「自分の給料は能力に比べて高すぎる」と思っている人はまずいません。
さらに、適正だと思っている人もほとんどいません。
世間のサラリーマンの99%は「自分の給料は不当に安い」と考えているはずです。
したがって、あなたから見て余分に給料をもらっていると思える人たちから給料を削って、その分自分の給料に上乗せしてもらえれば、会社も自分もハッピーというのが本音かもしれません。
そんな都合の良い制度があるはずないと思うでしょうが、成果主義がそれに当たるのです。
その昔、富士通を筆頭に上場企業がこぞって導入した制度ですが、うまく使いこなせている会社はほとんどありません。
なぜ成果主義は給料の不公平感の解消に役立たないのか
当時企業側が成果主義を導入した理由は、給料の安さに不満を持つ社員の救済のためではなく、総人件費抑制のための目くらましのためだったというのが本音です。
冒頭で述べたように成果主義の問題点はいくつかありましたが、不公平というテーマの解決策にはならなかったこともその一つです。
なぜなら、学生時代に通信簿の評価が不当だと憤ったことに端を発し、会社勤めを始めてからも、上司が行う勤務考課が適正に行われていると無邪気に信じている社員はほとんどいないからです。
成果主義のもと、自分より早く昇給し出世する同僚のことを「自分より能力が高くそれを適正に評価されたからだ」と考えられる人がどれだけいるでしょうか?
「あいつは、べつにたいした能力はないけれど、たまたま上司に気に入られたとか、ゴマすりが上手いからだ」と解釈しているはずです。
一方で、自分の昇給額が低く出世が遅いことは、「他人より能力が低く、それが適正に考課されたからだ」と考える人もほとんどいません。
むしろ、「能力が有り余って尖っていることや、お人好しの性格が災いしている」と考えているはずです。
だから成果主義になっても、サラリーマンの多くは勤務考課は不公平だと文句を言うのです。
でも、社内で革命を起こそうなんて考える人はおらず、「それが世の中だ」と大人びた諦めをすることで、その不公平感を自分なりに合理化しているのです。
実際のところ、万人にとって公平な勤務考課が現実的にだけではなく理論的にも不可能な以上、不公平感の解消に成果主義が役立たないのはある意味当然のことです。
成果主義が台なしにする不公平さがもたらすさ隠されたメリットとは
しかし、「勤務考課が公平でない」ことによって、自分自身のパッとしない現状が正当化されているメリットがあることに気付いている人は少ない。実は、勤務評定が不公平であり信用できないという事実から、不利益と同時に利益も得ているのです。
厳正な成果主義が仮に実現できたとしたら、そこには、学歴、年齢、入社年数、コネといった能力と関係のない条件一切が考慮されず、ただ自分の能力と成果のみで給料が決まることになります。
その世界がどういうものなのか想像してみてください。
成績順に席次が決まっている学校と同じく、給料の差は丸ごとハダカの業務遂行能力の差を表していることになります。
仮にあなたより2万1千円給料が高く10歳若いコバヤシから、「オレより無能なおっさん、この書類のコピーを10部急ぎで!」と言われたら、有無を言わずに「はい」と従わなければならない状況に耐えられるでしょうか。
多くのサラリーマン諸氏は「厳正な勤務考課による完全能力主義」という理想郷を夢見ていますが、その世界はむしろ地獄でしょう。
そこでは、自分の給料が安いことや地位が低いことについて、どんな言い訳も成り立たないのですから。
給料が低い=能力が低いという等式が成り立つ世界を生き抜けられるほど人間はタフではありません。
だから、世間のサラリーマン諸氏が自分の能力は不当に低く見られているという不満を持ちつつも、成果主義が根付かない理由はこんなところにもあるのではないでしょうか。
勤務考課がテキトーだからこそ、「本当は、自分はもっと優秀で高い評価を得てしかるべきだ」という甘い幻想の中に浸りながら、夜な夜な居酒屋で会社と上司批判の弁舌がふるえるのです。
成果主義なんか根付いた日には、新橋の居酒屋で上司と会社の悪口を言いながら、酒を酌み交わす楽しみすら奪われてしまうことになります。
そして、まさしく「自分の能力評価は不当で、そのために本来受け取るべき給料よりはるかに安い」と信じられるからこそ、その安い給料に甘んじていられるのです。
だから、多くの場合「給料が安すぎる」と言って去って行く人は、会社を変えてもその思いが解消されることは永遠にありません。
ここまでの話でわかるように、公平さの実現という目的のために成果主義が不完全であることは、社員のサイドにとっても実は望ましいことなのです。
である以上、成果主義が思惑通りに機能しないのは当然の結果なのです。
経営者におかれては、「公平で正しい人事給与制度が存在するという考え方自体が幻想だ」という基本的な認識を持つことが重要です。
そのうえで、ハーズバーグの二要因理論を思い出してください。
ハーズバーグによれば、給料や賞与は不満要因になることはあっても、動機づけ要因になることがないので、給料や賞与でやる気を引きだそうという考え方は意味がありません。
動機づけの観点からは、「仕事の報酬は仕事で与える」しかないことになります。