「高級品」と「普及品」という商品カテゴリー
世の中で売られている商品を大きく2つに分類するとき、「高級品」と「普及品」という組み合わせを使うことがよくあります。
高級品と普及品は、ある種類の商品における価格の違いという尺度によって分類されることになります。
たとえば、腕時計という商品における高級品はパテックフィリップであり、普及品はカシオになります。自動車で言えば、高級品はロールスロイスのゴーストⅡで、普及品はスズキのアルトという具合です。
ご存じのとおり日本経済は、デフレで物価が上がらず、その結果として実質GDPも伸びない状況が長引いています。
こういう経営環境において、おおくの経営者は少しでも会社を成長させるために、「安くないと売れない」と考えて無理をしてでも低価格戦略をとりました。
ところが、低価格というのは、誰でも採用することが出来る最も芸の無い戦略です。競合同志で「やられたらやり返す」という泥仕合を繰り返えしているうちに、勝者のいない消耗戦に疲れ切ってしまう会社が続出しました。
流行の「コモディティから高級品へのシフト」が失敗する原因
そこで、最近では「コモディティ(普及品)から高級品へのシフト」という考え方を採用する企業が増えています。
最も無益な消耗戦を続けている牛丼業界でも、並盛りの値下げ競争から、吉野屋が『牛重』、すき屋が『和牛弁当』という千円以上する商品を出す方向へ変化しています。
なるほど、薄利多売で貧乏暇無しになるくらいなら、単価が高く利幅も大きい高級品を扱った方が、生き残りの可能性があると考えるのは、あながち間違いではありません。
でも残念ながら、この考え方では、仮に高級品へのシフトがうまく行ったとしても、ある程度の時間稼ぎが出来ただけに過ぎません。
つまり、低成長でモノ余りの時代に、企業が生き残りをかけて方針転換を図るにあたって、高級品と普及品という分類で戦略を練っても、パラダイムシフトは起こせないのです。
特に普及品のビジネスに慣れ親しんでいる企業が高級品を考えるとき、高価な材料や希少な素材を使用して、これだけハイスペックなものをミドルプライスでという理屈っぽいストーリーでつい開発をしてしまいます。発想がどこまでいっても「お値打ち感アピール」から抜け出せないのです。
だから、高級品を売り出しても、たいして儲かりません。売値を倍にした分原価も倍になっていたり、場合によっては売値は倍だけど原価は2.5倍になっていても、粗利の絶対額が増えるのでOKとしているからです。
しかも、売上個数は普及品の10分の1以下に留まることなどざらにあるので、開発費用や設備投資の回収すら難しくなります。
「必要なモノ」と「不必要なモノ」という商品カテゴリー
では、代わりにどういう商品の分類軸が必要なのでしょうか。
低成長下の経営において必要な商品の分類軸は、「必要なモノ」と「必要ではないモノ」になります。
そう言われも、「なくては困る必要なモノは高く売れる」が、「なくても困らない必要ではないモノは、買い手がつくかどうかも分からない」と疑問を持つことでしょう。
たしかに、場所が無人島とか砂漠のど真ん中だったりすると、ペットボトル入りの水は「なくては困る必要なモノ」として高い値が付くけど、万華鏡は「なくても困らない必要ではないモノ」なので欲しがる人すらいないでしょう。
ところが、私たちの日常的な社会においては、なくても困らない必要ではないモノの方が、ずっと高く売れるという面白い状況が生まれています。
必要なモノになればなるほど低価格を求める消費者
一例として、生きていくために不可欠な食べ物について考えてみます。
人間は、空腹では活動が出来ないし、絶食が続けば死に至るので、食べ物はお金の使い途として優先順位が不動の一位です。
だから、世のサラリーマン諸氏の1日500円というランチ代でも、安くて美味しくてお腹がいっぱいになるファストフード店や大衆食堂がたくさんあるのです。
一方で、飽食の時代を象徴する、カロリーゼロ食品というものがあります。
カロリーゼロなのだから、生きるために食べる意味はまったくありません。パン屋さんでタダでもらえることがある食パンの耳の方が、カロリー摂取という点でははるかに役立ちます。
しかし現実は、635kカロリーが摂取出来る吉野屋の牛丼並盛りが387円(2021年7月20日時点)なのに、ダイエット・ゼリーはカロリーが牛丼の10分の1以下で、価格は牛丼並かそれ以上しています。
身に付ける衣服にも同じことがいえます。
安くて必要十分な服(=ファストファッション)の代表格であるユニクロですが、2015年に円安に伴う原価上昇を理由に、秋冬商品から約2割の商品の価格を平均して1割値上げしたことで、客数の減少とそれに伴う売上減が発生して業績が低迷しました。
値上げをしても平均客単価が横ばいなので、来店客は値上げされてお得感が減った商品を避けて購入したのでしょう。
今の世の中で人間が一糸まとわない裸で過ごすことは不可能ですから、必要な衣服は買わざるを得ません。
その必要性に応えるのがユニクロなのでしょうが、もともと2,000円くらいの値段の服が、2~300円値上げされただけで購入を躊躇うという人が多いのです。
ところが、お洒落を決め込むときに着る服を買うときは、価格が高いか安いかよりも、どれだけ気に入ったかどうかの方が重要になります。
しかし、お洒落をすれば自己満足を得られるとか女性にモテるというメリットはあるかもしれませんが、突き詰めれば何万円もする服がなくても困ることはありません。
でも、ユニクロでは数百円の価格差が気になるのに、お洒落のための服を買うときは1万円の違いが気にならないし、じっくり吟味すること自体が楽しかったりします。
このように、人間はないと困る必要なモノには、お金を出し惜しみします。
一方で、なくても困らない必要ではないモノには、喜んでお金を使うという性質があるのです。
なぜ必要なモノほど価格が安くなるのか
これまで商売の基本は、顧客のニーズ(必要)を探し、それを満たすことだとされていました。
だから企業は、おおくの人にとって「ないと困る必要なモノ」を提供することによって商売をスタートし、ニーズを探し続けることで商売を継続しています。
でも「ないと困る必要なモノ」は、最初から安いワケではありません。
ユニクロがブレークする切っ掛けを作ったフリースは、1976年にパタゴニアが試作した商品が元祖だと言われていますが、20年くらい前に初めて買ったパタゴニアのフリースは、2万円くらいした記憶があります。
そのころは「なくても困らない必要ではないモノ」でしたが、パタゴニアの評判を聞きつけて、他社は「なくては困る必要なモノ」になるに違いないと考えて、生産を拡大しました。
ないと困るのだから、作れば作っただけ売れる。
ユニクロが、1999年に850万枚、2000年には2,600万枚という驚異的なフリースのセールスを樹立したのは、その流れに乗っていたからです。
確かに2,000円程度の価格で、ユニクロでフリースが手に入ったときは、お買い得感がものすごく高かった記憶があります。
ただし、作れば作っただけ売れるのは、ある一定の水準までです。その境目を超えると、ないと困る必要なモノが余りはじめます。
では、モノが余りはじめたからといって、企業は生産を中止するでしょうか。
ユニクロに続けとばかりに、ネコも杓子も廉価なフリースを作り始めたけれど、ユニクロは生産を止めませんでした。
生産販売を止めれば、その分売上が減るし、自分だけ生産を止めたからといって競合他社が作り続ければ敵に塩を送ることになります。
結局、企業はより優れた商品を、より安い価格で開発し続けるしか道がないのです。
ユニクロの場合で言えば、フリースに続いて、ウルトラライト・ダウン、ヒートテックというヒット商品を生み出しました。
ところが、雨後の竹の子のごとく現れる模倣品の波に飲み込まれて、先行者利益が得られる期間が短いうえに、今現在では絶対的競争力のある商品がないということが、苦しい業績の一つの原因なのでしょう。
フリースの例で分かることをまとめると、こうなります。
パタゴニアのフリースは必需品ではありませんでした。高機能なうえにペットボトルの樹脂をリサイクルして製造するエコな点が、アウトドア好きで感度の高い人向けの趣味性が高いニッチな防寒着という位置付けでした。
そのフリースは、時間の経過とともに、なくては困る必需品に変わりました。
冷蔵庫や自動車やエアコンやスマホなどにも全て当てはまることですが、これらの商品が出始めたころは、「なくても困らない必要ではないモノ」でした。だって、それまでは、iPhoneもテレビもクーラーがなくても普通に生活出来ていたのですから。
しかし残念なことに、「こんな便利なものはない」と最初は感動したモノも、慣れてしまえば当たり前になってしまいます。
つまり、最初は「あったらいいな」という趣味性の高いモノや贅沢品は、時間の経過とともに「ないと困る必需品」へと変化していくのです。
自動車があったらいいなが、自動車なんて持っていて当たり前になり、カーナビあったらいいなと思い大枚を払ってカロッツェリアをオートバックスで取り付けていたのに、メーカー標準装着品として当たり前のモノになりました。
そして重要なことは、なくては困る必需品になった途端に価値が下がり、価格が安くなるということです。
結果的に、必要ではあるけれど、なるべくお金を払いたくない存在へと変わっていきます。
購買の動機づけが「欲しい」から来ているときはモノは高値で売れることが多いのに、「必要だから」に変わるとモノへの思いは希薄になり、なるべく支出を減らしたくなります。
モノが普及し、世の中が便利になり、ないと困る必要なモノが増えれば増えるほど、モノの価格が下がり続ける状況は、こうした背景から生まれているのです。
だから、高級品と普及品という1本の軸の中でポジションを変えたつもりでも、高級品も時間の経過とともにコモディティ化の波にさらされる可能性は避けられません。
「必要」「便利」よりも「欲しい」を喚起することが重要
「便利」とか「必要」という明白な動機づけに依拠して自社の提供する商品やサービスを考えて、価格が高いか安いかということで多様性を持たせて展開するビジネスは、市場のパイが拡大することが期待できない時代では、極めて旬な時期が短いことが運命付けられているのです。
業種に関わらず、重要なキーワードを「必要」「便利」よりも「なくても困らないけど欲しい」に置いた方が、ゼロサムで市場シェアを奪い合う状況を避けて、ニッチかもしれないけど自社の強みを活かして安定的に収益を確保可能なビジネスを成立させる可能性が高いのです。
その場合に、モノを売るのではなく「ブランド価値」を売るとか、「商品文化を売る」というような営為が大切になってきます。
※ここから先は余談になりますが・・・
人間が生きていくために食べ物が必要だということは、冒頭で述べましたが、食べ物以上に必要不可欠なモノがあります。
それは、「空気」です。
食べ物は、3日や4日摂らなくても死にませんが、空気がなければ、私たち人間は即死します。
それくらいなくては困る必要なモノである空気は、地上に豊富にあるために、ほとんどの人は価値のないものと錯覚しています。実際、飲み水にお金を払うことは普通でも、空気を買っている人はいません。
同様に、人間性ということを考えた場合、「誠実さ」とか「他人への思いやり」とか「自己犠牲」などの素晴らしい資質に、いちいち値付けをしたりはしません。
逆に現代人は、真に価値のあるものではなく、自分を違う自分へしてくれる(くれそうな)モノ、自分を背伸びさせてくれる(くれそうな)モノ、自分を一時的な快で満たしてくれるモノなど・・・、いわゆる自己欺瞞に価値を見出し、お金を支払うことには積極的になることが多いのです。
そして、ブランドでもカルチャーでも、それを語るストーリーでも同じですが、そうしたコンテンツがメッセージとして相手に上手く伝わるかどうかは、現代人の心に巣食っている自己欺瞞をどれだけ刺激出来るかにかかっています。
そういう意味で、悲しいかな「真に大切なものはブランドにはできない」という厳然たる事実から目を背けるわけには行きません。
別にきれいごとを言いたいのではありません。
問題があれど他に有効な選択肢がない以上、私たちは資本主義社会を舞台に、低成長という環境のもとで、企業経営をし生活をしていくしかありません。
良い悪いというジャッジは棚上げして、現に与えられた世界でより良く経営をし生きていくためには、「人間とは、そういうものなんだ」という認識を持った方が、余計な苦労が減るのです。