企業改革が正論を主張するだけでは成功しない理由

経営脳のトレーニング
A scared businessman full-height in a scare pose and a giant hand pointing at him, on the office background. Business and management. Employment issues. Getting fired. Being told off.
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問題が生じることによって自説の正しさが証明される矛盾

相手のことを思い、アドバイスをした経験をしている人は多いはずです。

自分だけの身体じゃないのだから、年に一度は人間ドックへ行ったほうがいいですよ。

始業時間ギリギリではなく、30分前に到着するようにしておけば、通勤途中で何かハプニング起きても遅刻しないで済みますよ。

こうしたアドバイスは、内容的に誰がどう考えても「正しい」ものです。だからこそ、アドバイスをする人は、相手が絶対に聞き入れるはずだ、あるいは聞き入れるべきだ、と考えます。

しかし、世の中には正論を聞かされても、おいそれと従わない人がたくさんいます。

親切な人は相手のことを思い、それでも繰り返しアドバイスをしますが、空返事だけで一向に従う様子が見えないと、こう考え始めます。

何度言っても分からないのなら、本当に痛い目にあって気付かせるしかないかもしれない。

正論を伝えている人は、これほど自明なことを相手がすんなり受け入れてくれないことが理解できません。

すると、一度痛い目にあって思い知ればいいんだ、と考えるようになるのです。

これは、個人的な関係のなかだけのことではなく、社会においても同様のことがいえます。

例えば、原発反対派の方は、こういう意見を主張します。

「また大規模な地震や津波が発生して福島第一原発のような事故が別の原発で起きたら、取り返しのつかない事態になる」

また、TPP反対派の方は、こういう意見を主張しています。

「TPPに参加すると、日本が誇る国民皆保険制度が崩壊して、お金がなければ医療を受けられずに人が死んでいく社会になる」

さらに、改憲派(特に第九条)で国防軍の必要性を説く方は、こういう意見を口にします。

「中国や北朝鮮が、突然攻めてきたらどうするつもりだ」

こうした主張は、ある意味「正論」です。

当然、こうした正論を口にする本人も「私の主張することは間違いなく正しい。だから人々は聞き入れるべきだ」という信念を持っているはずです。

だた、正論を好み、自説の正しさが承認されることにこだわる人は、自らが危惧している事態が発生することを心のどこかで切望するという矛盾を抱える危険性を持っているのです。

なぜなら、原発稼働の危険性を証明するのに、第二の福島第一原発事故の発生以上に確実なものはないし、TPPによる国民皆保険制度の崩壊を証明するのに、TPPへ参加して実際に保険制度が瓦解する以上に確実なものはないし、国防軍の必要性を証明するのに、隣国が実際に離島に上陸して不法占拠を開始するという事実こそ、いかなる論理やデータよりも自説が正しかったことを雄弁に証明するであろうからです。

もちろん当の本人は、国を憂い国民を憂えて、現在の状況や問題に対して意見を述べ反対を唱えているに違いないでのすが、一方で、本人にとって望ましい状況とは、「○○原発で事故発生!」とか「医療費は激減したが死亡者数が急増!」とか「尖閣諸島に中国軍が上陸し、海上保安庁と対峙中!」といった緊急ニュース速報が飛び込んできて、自説とは異なる意見を述べる者たちが、顔面蒼白になって絶句するという場面に違いありません。

なんとも不思議なことです。

正論家の正しさは「社会や国がいまより悪くなること」によってしか証明できません。

だから、皮肉なことに、正論家は必ずや「社会や国がいまより悪くなること」を無意識に望むという矛盾に陥るのです。

正論家は原理主義者で教条主義者でもある

正論家は、ある意味原理主義者で教条主義者であるとも言えます。

原理主義者という言葉は、最近イスラム教徒が関わるテロ事件などの報道でよく使われています。

でも、今ひとつ何を意味するのか分からない場合が多いのではないでしょうか。

アメリカの次期大統領であるトランプ氏は、イスラミック・ステート(IS)を壊滅すると宣言しています。

大統領に就任した暁に、具体的にISに対して軍事行動を強化すれば、報復のためのテロが起きる可能性はきわめて高いはずです。

「あなたは、暴力的ですぐに怒る人ですね」と言われた人が、「ふざけるな。それは不敬な妄言だ。取り消せ」と案の定怒り出した場合、どのように扱えばいいのでしょうか。

「暴力的で短気だ」と分かっている相手をわざわざ怒らせることは、日常生活のレベルで考えても、あまり賢明とは言えません。

一方で、「あなたは暴力的ですぐに怒る人ですね」と言われて、まんまと怒り出すのは、その「不敬な妄言」が図星であることを自ら認めることに他ならないから、やっぱり賢明とは言えません。

こういう場合は、相手を怒らせる方も、怒らせることを狙って仕組まれたことで怒り出す方も、どっちもどっちで賢いとは言えません。

こう言われて、「どちらが賢いかどうかではなく、これは正義の問題なんだ。重要なのは正しいか正しくないかだ!」とイキる人が必ず出てきます。

こういう方のことを「原理主義者」と言います。

宗教的な意味合いとは関係なく、功利や解決にこだわるのではなく、正しさにこだわる人は、ある意味すべて原理主義者であり、自らが信じることに対する教条主義者なのです。

理屈っぽいではなく論理的になるために必要なこと

正論家にして原理主義者の人は、なぜ自説の正しさを強烈に信じ主張できるかというと、論理的に突き詰めたからということもありますが、「そうする方が正しいし良いに決まっているでしょ」と決め打ちになっていることが多々あります。

つまり、リソースは無限であることを前提に、至純にして最高のものを求める傾向が強いのです。

新自由主義を信奉するネオリベラリストが、「自由貿易と市場原理に任せた経済が、どの時代でも状況でも普遍的に正しい」と語るのは、典型的な正論家にして原理主義者と言えるでしょう。

でも、現実の企業や経営、あるいは生活の中では、閉じられた世界、有限の時間、限られた資源の中で、相対的によりましなものを手当てすることの方が重要なのです。

自分では、誰よりも理詰めでものを考えられると思っていますが、そういう人は論理的ということと理屈っぽいということの違いが分かっていません。

論理的に思考するというのは、いま自分が手慣れて利用している考え方をいったん機能停止させるところからスタートします。

いま自分が手慣れて利用している考え方とは、自分にとっては自然で当たり前と思えるような経験や思考の様式のことを指します。

いま目の前にある問題を取り扱うのに、自前の考え方だけでは埒があかないということは、少なくともその問題の解決のためには、いまの自分の考え方が使いものにならないことを意味します。

それは、往年の漫画「プロゴルファー猿」でなければ、ドライバー一本で18ホールを回るのが不可能なことと同じです。

バンカーにボールが入っているのに、ドライバーだけを握りしめていても始まりません。その場合、ドライバーを置いて、さっさとサンドウェッジに持ち替えないといけません。

論理的に思考するとは、詰まるところ、ドライバーを捨ててサンドウェッジに持ち替えることなのです。

ゴルフを例えにしていると、バンカーからボールを打つのにドライバーを使う人など99%いないので、ドライバーだけに固執することなどあり得ないと思うことでしょう。

でも、論理的思考においては、自前の道具に執拗にこだわり続ける人が、驚くほどたくさんいます。

そういう人を、理屈っぽい人と言います。

理屈っぽい人は、ホール毎に設計が異なり、自分の打ったボールのライがまちまちなのに、18ホールをドライバー一本で済ませようとします。

反対に論理的な人は、ドライバーにはこだわらず、状況に応じて使えるクラブの可能性をすべて考えて、スコアメイクしようとします。

場合によっては、逆打ちを試みたり、右打ちを左打ちに変えたり、道具について、それが常識的に蔵している使い方とは違う使い方を常に探り続けているという特徴があるのです。

最近、垂直思考に対して水平思考の大切さがクローズアップされていますが、結局のところ、垂直思考とは自前の考え方にこだわる思考方法であり、水平思考とは自前の考え方を一度棚上げにして、新たな補助線を探したり、他人の考え方に想像的に同調することで、はじめて可能になる思考方法なのです。

企業改革を進めるときに大切なこととは

企業組織において、改革の必要性は常に意識されています。

でも、一度でも改革に手を染めた人なら分かることですが、改革ほどうまく進まないことはありません。

改革がうまく進まない理由は、いくつもあるでしょうが、その大きなものの一つに、「改革の必要性を説く人ほど正論家が多い」という事実を見逃すことはできません。

「その他大勢の人より、自分の方が色々なことがよく見えている」という人だからこそ、改革の必要性にいち早く気付くことができます。

しかし、その他大勢の愚衆に向かって理路を正して「このまま船を走らせたら、氷山に激突するよ」というような話をいくら繰り返しても、「海は穏やかだし、天気も良いから、そんな心配しなくても大丈夫じゃない」「見晴らしがいいから、仮に氷山があっても事前に気付くでしょう」などという腑抜けた反応しか返ってこないと、まるで自分が小心者ゆえ大騒ぎをしているかのような状況に我慢できなくなります。

企業の改革活動においては、改革の必要性を主張する正論」とそれ以外の人々の間に大きな温度差があることそれ自体が、改革の必要性を担保しているとも言えますが、理詰めで改革を主導すると遅々として進まない状況に対して、自説の正しさを証明するためのカタストロフィの発生をどこかで願うという気持ちが生まれます。

そして、心のどこかで「じゃ、好きにすればいいじゃないか」「俺の考えが正しかったことが証明されて、苦労すればいい」というように思い、危機の実現を願う気持ちが芽を出し始めるのです。

まだここで話は終わりません。

企業における改革の話が厄介なのは、幸いなことに改革の必要性が受け入れられて実行されると、やっぱり予言していた危機は訪れなくなります。(それは、当然のことなのですが。)

ところが、「あなたの言うとおりに改革を行ったので、無事に危機を回避することができました」と感謝されるかというと、そうでもなく、「やっぱり、何にも起きませんでしたね」くらいのことを言われてしまうことがあります。

引っ張る傾向が強い右打者の癖を読んで、二塁手があらかじめベースの真後ろに守備位置を変更しておけば、センター前に抜けてヒットになる打球が、セカンドゴロがにしかなりません。

でも、横っ飛びで捕球したとか、スライディングキャッチしたといった派手なプレーとは異なり、そういうプレーは決してファイン・プレーとは呼ばれないのと似ています。

こうした正論家のルサンチマンが、逆に企業における「改革」を危うくすることが、少なからずあるということを有能な正論家は自覚しておく必要があります。

また、他人より視野が広くいろいろなものが見える人は、正鵠を射抜いた正論を導き出すことが多いのですが、その正論にこだわり過ぎることで、かえって単に原理主義者で理屈っぽい人になる危険性が生じます。

能力の高い人ほど、自前の道具に自信を持っているものですが、一度、自分の道具の限界の存在を知るとともに、プリコラージュ的な思考や仕事の進め方を身に着けたら鬼に金棒ではないでしょうか。

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