日本は学歴社会ではない!だけど学歴が気になる不思議な国

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「日本は学歴社会である」という誤解

2015年の4月に放映された日本テレビの『解決!ナイナイアンサー』の中で、『高学歴の利点』として、あるタレントが発言した内容が、ちょっとした話題になりました。

参考記事▶「学歴は努力の証明書」で福田萌が炎上 ネットは「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」と批判

具体的には、以下の発言が注目を浴びたようです。

私達夫婦は、親の用意してきた道を歩んできたのではなく、学歴をつかみとってきたという誇りがある。努力の証明書として学歴がある。

学歴が有利に働くのなら、日本は学歴社会なのでしょうか。

あらためて言葉の定義を確認しますが、学歴社会とは、学歴によって職業選択、給与体系、出世速度などが左右される社会のことです。

だから、日本は学歴社会だと結論付けたくなりますが、「日本はそもそも学歴社会ではない」のではないでしょうか。

なぜなら、学歴の差というものは、それに先立つ社会的階層差の結果に過ぎないからです。

私たちの社会は「学歴によって序列化されている社会」ではなく、「学歴以前の各種条件付けによってあらかじめ序列化されている社会」なのです。

つまり、学歴における差別化は、すでに制度化している差別化の一つの現れに過ぎないと思うのです。

学歴社会成立の必要条件であるメリトクラシーを満たしていない日本

学歴社会とは、実はメリトクラシー(meritocracy)の原理を前提としています。メリトクラシーとは、実力主義や能力主義のことです。

人々はそれぞれの実力を発揮して、その社会的序列を上げてゆき、実力発揮の機会は全員に平等に与えられている、というのがメリトクラシーの考え方です。

メリトクラシーが日本において機能していると主張するためには、ある前提が成立していることが必要です。

それは、社会的選抜が個人の能力や成果のみを基準に行われ、出身階層などの属性要因の影響を受けていないとする前提です。

でも、そのためには、個人の能力も努力も、生まれ育ちに関わりなく平等に分布している事実が存在する必要があります。

しかし、残念なことに、この事実が成立していないのが日本です。つまり、日本はメリトクラシー社会ではないのです。

「やれば出来るのに」は幻想で「やれないから出来ない」に過ぎない

努力は能力ではなく、誰でもできることだと思っている人がいますが、努力こそ個人の大切な能力であり、この能力は、あきらかに生まれ育ちの影響を受けています。

「勉強ができる」というのは、「頭がいい」という意味ではありません。

勉強のようなくだらないことに、限りあるリソースを惜しみなく注ぎ込むことができるという、一種の狂気を身につけていることを形容しているに過ぎません。

そして、メリトクラシーというのは、努力する者に報いる制度です。それは、誰でもその気になれば努力することが出来る、ということを前提としています。

だけども、「その気になれば」というところに落とし穴があります。

人を評するに当たって、「やれば出来る人なんだけどね・・・」と言うことがありますが、これほど虚しい表現はありません。むしろ「やらないから出来ない」、あるいは「やれないから出来ない」という事実の方が重要なのです。

なぜなら、世の中には「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がいて、この違いは個人の資質というより当人が育って来た環境に、深くリンクしていることが多いからです。

「努力できる」こと自体が最大の能力である

現在、学校で行われている「総合的な学習の時間」や「体験学習」は、学力よりも創意や自発性を重視したカリキュラムです。

これが教育的に妥当であるとされたのは、学力にはばらつきがあるけれど、創意や自発性は全ての子どものうちに等しく分配されている、ということを広く人々が信じているからです。

しかし、いったい何を根拠にして、創意や自発性、加えて自然体験や職業体験を通じて学ぶ喜びを見出す能力が、全ての子どもに等しく分配されている、ということを人々は信じられたのでしょうか?

学校や企業において、意欲の高い子ども(社員)と低い子ども(社員)との差は歴然と存在します。そして、しばしばその差は学力(個人業績)以上に既に決まっている要素です。

例えば、「好きな本を読んで感想を自由に書く」というのと「英単語を100個覚える」というのでは、何となく前者の方が自由度が高く学力差が付かない教育法であるような気がします。

しかし、親兄弟に読書好きが多く、しかも優れた表現力や論理的プレゼンテーション能力が求められる会話が絶えない家庭に育った子どもと、そうでない子どもの間では、自分の気持ちを自在に表現することにおいて、既に決定的な差が存在します。

親の一方が英語のネイティブ・スピーカーで、家では英語と日本語をバイリンガルにしゃべっているという子どもが、英語で読み書きする教科でハイスコアを取るのを見て、たいていの人は(口には出さないまでも)「それはフェアな競争ではない」と考えることでしょう。

でも、日本語で読み書きする教科でハイスコアを取った同じクラスの子どもに対して、その親が優れた日本語の使い手であることを理由に、フェアな競争ではないと考える人はほとんどいません。

それは、「日本人は誰でもみんな同じように日本語が使える」と多くの人が信じているからです。少し考えれば、そんなことはありえないことに誰でも気付くはずなのに。

それと同じように、「努力さえすれば報われる」という物言いが通るのは、「全ての子どもには『努力する能力』が等しく備わっている」と、多くの人々が信じているからです。

残念ながら、これは真実ではありません。

努力できる能力がある子どもと、その能力がない子どもの間にはハッキリとした境界線が存在し、それは子どもの自己決定とは無関係なのです。

努力することを価値とみなす生育環境に生まれついた子どもは努力をし、そうでない子どもは努力をしません。

そして、社会人として仕事をするようになってからも、各人の間に努力できる能力に歴然たる違いが存在し、努力できる能力こそが立派な才能ではないでしょうか。

学歴社会ではないのに学歴から逃れられない不思議

さて、本質的に日本は学歴社会ではないことが分かったのですが、学歴社会という言葉が一向に無くならない理由はどこにあるのでしょうか。

私自身は、学歴について偏見も無ければコンプレックスも持っていないつもりです。

でも、そもそもこんなふうに「私は学歴に対して偏見がありません」という宣言をしなければならないところからして既におかしいのです。

学歴の話題を私たちがはばかるのは、どのような論点から学歴を論じようと、結局学歴の社会的意味を増大することに他ならないからです。

学歴について誰かが何かを言おうとすると、私たちは必ず「で、そうおっしゃるあなたの学歴は?」という問いを最初に投げかけることを止められません。

そして、その発言が「いかにもその学歴に相応しいもの」であれば、「なるほど」と頷いて、学歴の社会的指標としての信頼性はますます高まります。

逆に、「そのような学歴の人が口にするとは思われないこと」であれば、それはそれで「そのような学歴の人が、こういうことを言う場合もある」という形で例外ケースが補充され、学歴と人間の言動の関連性についてのデータベースは一層精密なものになるのです。

要するに、どう転んでも学歴を論じる限り、私たちは学歴について言い及ぶ回数を増やす行為からは逃れられないのです。

もし学歴差別を廃した学歴無用社会の実現を本当に望んでいる人間が存在するなら、その人は学歴について発言するに際して、決して自分の学歴を明らかにしないところから始めるべきでしょう。

しかし残念ながら、日本のメディアは「決して自分の学歴を明らかにしない」ような人間には、発言の機会を提供してくれません。

私たち一般人にしても、本を買う時の著者やテレビのコメンテーターのプロフィールに学歴が記されていなかった場合、その人の書いていることや言っていることを俄には信じようとしません。

日本は学歴社会ではないけれど、学歴が気になる社会とは言えそうです。

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