「社員に危機感がない」と嘆く経営者がおかしている誤りとは

経営脳のトレーニング
経営脳のトレーニング
この記事は約6分で読めます。

期首や年頭のメッセージで経営者が多用する「厳しい」という言葉

年度や新年の始まりにあたり経営トップがメッセージを発信することが通例になっています。

いろいろな企業トップのメッセージを読んでいると、ある共通したキーワードがあることに気付きます。

それは、「厳しい」という言葉です。

「厳しい」市場環境、「厳しい」経営環境・・・等々

長引くデフレ不況の中、経営者が「厳しい」という言葉を使うのは、当然のことと思うかもしれません。

しかし過去を紐解いてみると、バブル景気真っ盛りの平成元年(1989年)の年頭の所感においても、多くの社長が「厳しい」という言葉を使っていました。

とにかく経営者は気持ちを引き締めるために、「今年は楽勝!」とか「我が社のこの先1年間は希望に満ち溢れていて何らの不安もない」などとは決して口にしたくないのです。

今年の仕事始めにあたって、大企業から中小企業に到るまで、全国津々浦々で経営者の口から「厳しい」という言葉が飛び交った日本だったはずです。

しかし、経営者が年頭のメッセージに込めて社員に届けることは、果たして「厳しい」という言葉で表現された「危機感」なのでしょうか。

「危機感」は共有できないし、「危機感」で人は動かない

「改革」とか「革新」という名のもとに、企業を大きく変えていこうとする取り組みを始めると、経営トップに苛立ちと焦りが出てくることがよくあります。

かつて取り組んだプロジェクトにおいても、先方のY社長とこんなやり取りをしました。

プロジェクト会議における、メンバーの貧弱な参画姿勢を見るにつけ、どうもこのプロジェクトの足取りは上手くいっていないと私は感じ始めています。

うまくいっていないのではなく、これが会社の現状ということです。

もちろん、3ヵ月で目に見える成果を期待しているわけではありません。それよりプロジェクトの立ち上がり段階で最も必要なことは、危機感の喚起だと思いますが、この重要な危機感の喚起が極めて不十分だと思います。

必要なのは危機感ではなく、プロジェクト・メンバーが自身の可能性と会社の可能性を信じることです。

私が指名してプロジェクト・メンバーを選んだところに問題の発端があるのかもしれません。しかし、プロジェクトに参画した以上、なぜプロジェクトが発足したのか、そしてなぜ自分がメンバーに選ばれたのかという根源的なテーマについて各人が思いをめぐらし、今そこにある危機に気付いていくことを期待していましたが、どうも期待通りにはなっていません。

その通りなのです。社員は経営者の期待通りにはならない。だから、経営は難しいし、やりがいのある仕事なのです。社員が期待通りになれば、経営者は不要といえます。

Y社長は、父親から経営を引き継いだ二代目ですが、非常に勉強熱心なうえに熱い情熱をもっている方です。

だからこそ、従来路線で会社が進むことに危機感を持って、次の10年を見据えて企業全体の抜本的な改革に取り組むことを決断しました。

しかし、この優秀なY社長をもってしても、多くの経営者が陥るワナから逃れることは出来ていませんでした。

たしかに、優れたリーダーシップを発揮できる経営者は、漏れなく健全な危機感を持っています。

ただそれは、自分の中にビジョンやテーマがあるからこそ、危機感を「結果として併せ持っている」のです。

決して危機感を持ったから、リーダーシップを発揮できるようになったわけではありません。

だから社員に対して、危機感を与えれば行動を変えられると考えるのは、モレスキンのノートを使えばゴッホやピカソになれると言っているのと変わりません。

人間は闇より光が好き

多くの人間に当てはまるこの真実を、私たちは決して忘れてはなりません。

経営者としてどのような「信じられる未来」を語るか

ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』という本がありますが、読んだことがある方も多いと思います。

『夜と霧』とは、第二次世界大戦中にドイツの強制収容所に捕らえられ奇跡的に生き延びたフランクルが、精神医学者として極限状態における人間の心理について書いた本です。

この本の中に書かれている次の一節は、大変意味深いと思います。

彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。

未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。

肉体的にも精神的にも極限の状態である強制収容所において、より生き延びたのは、頑丈な身体の人々ではなく、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへ逃れる道をもった繊細な人々だったのです。

でも、「だから目標を持って生きることが重要だ」と理解するのは、早とちりです。

1944年の12月末から1945年の年頭にかけて、収容所ではかつてなかった程の大量の死亡者が出ました。

その原因は、苛酷な労働条件でも悪化した栄養状態でも、また悪天候や伝染病疾患によるものでもなく、単に囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという、根拠のない楽観的な希望に身を任せたためです。

そして、実際にクリスマスに解放されない現実に直面すると、失望や落胆が囚人達から抵抗力を奪い、大量死亡に結びついたのです。

フランクルは、生命の意味について、こう語っています。

ここで必要なのは生命の意味についての観点変更なのである。

すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。

言い替えると、自分のために人生があるというより、人生の要求に応えて意味を実現するために自分が存在する。

得ることではなく捧げることとに人生の確かな基礎がある。あるいは生命は使命のためにあるといってもいいでしょう。

フランクルの『夜と霧』を引き合いにして、企業経営に結び付けることに無理な飛躍があるかもしれませんが、大いに通じるところがあるのではないでしょうか。

企業経営においても、組織全体に必要なことは危機感ではなく「信じられる未来」です。

ただし、それは楽しむ、あるいは幸福になるという世間的に言う「自己実現」のレベルの話ではないし、短期的に「いくら儲けよう」という目標レベルの話でもありません。

企業として社会に対してどんな貢献ができるかという「使命」こそが、「信じられる未来」の礎になるはずです。

そのためには、企業としてのミッションや理念以前に、経営者自身がどのような使命や人生観を持っているかが問われるることになります。

社員へのメッセージで与えたいものが「危機感」ではないとするなら、「信じられる未来」として具体的に何を語るかについて、これを機会に考えてみてはいかがでしょうか。

シェアする
TAISHIをフォローする
経営メモ