「やれること」より「やりたいこと」「やるべきこと」を重視する現代気質が持つ問題点とは

経済・社会・政治
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「やりたいこと」「やるべきこと」を重視した仕事探しが主流

就活生にとっても新入社員にとっても重要なキーワードは、自分の「やりたいこと」です。

就職活動が成功したかどうかは、有名一流企業から内定がもらえたかどうかで測る人が多いようですが、自分の「やりたいこと」をしっかり分析し、その実現に相応しい企業を探し出して就職を決めたかどうかの方が満足度への影響度は大きいと思います。

しかし、自分の「やりたいこと」を実現できる場として入社したはずの会社だったのに、希望とは異なる部署に配属されたうえに、お茶くみやコピー取りのようなくだらない仕事をさせられると、自分の「やりたいこと」とは違うとして早々に会社を辞めていく新入社員が現れます。

その行動は、「やりたいこと」が出来ないこんな会社に長居をせずに早々に辞めるべきだという、「やるべきこと」への判断が背景にあります。

やっぱり、今の若者は自己中心的で、「やりたいこと」「やるべきこと」にしか興味がないのでしょうか。

ところで、「やりたいこと」「やるべきこと」に似ている別の言葉に「やれること」がありますが、若者の語る言葉の中では出番が少ない文言です。

しかし、それはある意味仕方がないことです。まだ仕事の経験が無く、実績によって裏付けられたスキルや知識がない就活生にとって「やれること」は一つもないからです。

問題があるとすると、自分には「やれること」がないという事実認識が、本人の中で希薄なことの方です。

自分が「やりたいこと」や「やるべきこと」を実現することは、仕事を遂行する目的の半分でしかありません。もう半分の目的は「やれること」を磨くことです。

ただし、「やれること」は「やりたいこと」や「やるべきこと」と必ずしもイコールにはなりません。そこを理解しておく必要があります。

「やりたいこと」「やるべきこと」は自己完結的

自分の仕事を考えるとき、「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」という3の切り口があることが分かりましたが、それぞれの特徴と相互の違いとは何なのでしょうか。

色々な考え方が成り立ちますが、「やりたいこと」「やるべきこと」は個人的なことで、「やれること」は社会的なことであるという特徴と違いがあります。

個人的なことは、他人との関わりや承認を抜きにして自己決定できますが、社会的なことというのは、他者の同意や許諾なしでは決定し得ません。

たとえば、「今日のランチにトンカツを食べたい」は「やりたいこと」です。そして、「今日は不燃ゴミの日だから、朝8時までにゴミ出しをしなければならない」は「やるべきこと」です。

この2つに共通しているのは、仮に他人がこの発言を聞き及んだとしても、「ああ、そうですか」と言えば済むことです。

「自分の欲望を自分で満たすこと」や「自分に対する期待を自分で達成すること」の主語は自分であり、動作の目的も自身に対してなので、自己完結する行為と言えます。

「やれることは」は他者の存在が前提になる

一方で、「やれること」「できること」は、そう簡単には完結しません。

「私はこれができます」という宣言は、これが他人によって必要とされている場においてしか意味を持たないからです。

飛行機に乗る前に「私は医者です」という能力の申告をしたところで、フライト中に病人が出て「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいますか」というCAからの要請がない限り、意味をなしません。

「ニーズ」が発生してはじめて「できること」の意味が発生する。ここに、社会的な「できること」の特徴があるのです。

「私はダイエットがしたい」「私はダイエットをしなければならない」という独り言はあり得ても、「私はダイエットをすることができる」と鏡の前の自分に言い切る意味は本来ありません。俳優が役作りのために、半年で10kgの減量を求められたとき、「私はダイエットすることができる」と監督に宣言するシチュエーションではじめて意味をなすのです。

先ほども指摘したように、これから仕事を始める若者に対しては、まだ他者の具体的な「ニーズ」がありません。

だから、勝手に「私はこれができる」という可能性の申告をしても意味がない以上、若者が「やりたいこと」と「やるべきこと」に傾注するのは、当然のことなのです。

若者と大人の境目は「できること」を語れるかどうか

裏を返すと、若者と大人の境目は、「できること」を語れるかどうかにあります。

その前提は、他人から「ニーズ」を突き付けられていることですから、他人から何らかの期待をされることが大人の条件です。

しかし、「今の若者は・・・」と嘆く人間は今の世の中にもたくさんいますが、果たして、その人たちは本当の「大人」と言えるのでしょうか。

「できること」を語れる本当の「大人」は、自分に要請されているニーズを正確に理解したうえで、その実現に真摯に取り組む人間のはずです。

ニーズを誤解したり、ニーズを理解しつつも軽んじる人間は、「できること」について何ら語ることがないという意味で、若者と同じ存在でしかないのです。

社会全体で「やりたいこと」「やるべきこと」が優先されている風潮

最近は、年齢を見ると十分に大人なはずの人間が、「やりたいこと」や「やるべきこと」を優先していることが増えています。

例えば、最近頻発している地震や洪水などの災害現場では、ボランティアで訪れる一部の人々の行動が問題視されています。

汚れ仕事を嫌がる、仲間同士のおしゃべりに夢中で仕事をしない、倒壊した建物を背景に記念写真をとるなどです。

本来ボランティア活動とは、真っ先に被災者の「ニーズ」があり、それに応えて「やれること」を行うという大人の行動のはずですが、こんなところにも「やりたいこと」「やるべきこと」を優先した思考と行動原理がはびこり始めています。

さらに、知識も経験も他の世代よりも豊富であるがゆえに「やれること」への貢献可能性が高い高齢者の中に、自分の都合やあるべき論を優先して、恫喝をしたり手を挙げたりする暴走老人が増えていることも、同じ風潮の中に位置付けることができます。

企業でも「やりたいこと」が優先されて「やれること」が軽視される傾向

最近の企業不祥事を見ていると、いい大人が自分に対して要請されているニーズを無視して、「やれること」に優先的に取り組まず、「やりたいこと」や「やるべきこと」の実現に躍起になった結果だという共通点があることに気付きます。

東芝の不正会計事件、三菱自動車の燃費データ不正事件、政治家の不倫事件・暴言事件、コメンテーターの経歴詐称事件、それぞれ事件のディテールは異なっているように見えても、事件が起きる根本的な仕組みは同じなのです。

企業がミッションや理念を明文化して、社内で共有し、自社サイトに公開して広く世の中に発信することが普通な世の中になっています。

でも、そうしたミッションや理念を読むと、ほとんどが「やりたいこと」「やるべきこと」について語っているだけで、社会からどういう「ニーズ」を要請されていて、それに対して「やれること」が何かについて語っていることが少ないのです。

この原理に自覚的にならないと、一生懸命仕事をしても、いやむしろ一生懸命仕事をすればするほど、気が付けばとんでもないことをやらかしていたという結果になりかねません。

先ずは世の中から必要とされる企業になること

自己実現が大切だと信じられている今の世の中だからこそ、あえて企業活動においても、「やりたいこと」「やるべきこと」以上に、社会は我が社に何を求めていて、それに対して「やれること」は何なのかという大人の視点を、経営の中にしっかりと落とし込む重要性が高まっているのです。

そのためには、先ずその企業の社会的な存在意義が必要です。世の中から求められていない企業には、満たすべきニーズが存在しないため、「やれること」を考えようがないのですから。

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