企業の寿命を伸ばしたければ社内の「常識」を疑え

経営脳のトレーニング
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「常識とはなにか?」と問われて明確な回答ができるか

生きていくうえで「常識」を持っていた方がよいと思っている人は多い。

そのことが分かっていることを「常識がある」と言います。

ところが、「常識とはなにか?」と問われると、答えに窮することになります。

常識の辞書的な定義は、もちろんあります。

ある社会で,人々の間に広く承認され,当然もっているはずの知識や判断力。(出典:大辞林)

でも、ここから一歩踏み込んで、「常識の具体的内容」について問われると、しどろもどろになってしまうものです。

なぜなら、そもそも常識は形あるものではないからです。

言葉の使い方に明文化されたマニュアルはなく、「常識的に考えて・・・」と自説の正当性を裏付けるときや「常識的にはちょっと・・・」と抑止的な場面で口にされるだけで、その主張の根拠になっている常識が真であることを示す証拠は存在しません。

だから、あなたの常識からすると非常識な人から「君の言うことのどこが常識なんだ。それは何年何月何日から常識として登録されたのか。それが常識として通用するのは東京?大阪?日本?」という具合に、詰め寄られるとまず返答ができません。

押しの弱さが常識の優れた特性

けれども、この「押しの弱さ」こそが常識の持つ優れた特性なのです。

常識というのは外形的・数値的なエビデンスでは基礎づけられないけれど、個人が内心深いところで確信している知見のことだからです。

したがって、常識は「真理」を名乗ることができないし「原理」にもなりません。

ゆえに、人は決して常識の名のもとに自身の行動をドライブすることはできません。

例えば、「高校へ行くくらい常識だろう」という動機では勉学に身は入らないし、「いい歳して結婚くらいしているのが常識だろう」と思っただけで婚活に邁進しません。

なぜなら、人は自分の考えに確信が持てないときに、とりあえず常識というニュートラルゾーンを活用しているだけだからです。

「なんか、そうじゃないかなって気はするんだけど、別に確たる根拠があるわけじゃなくて、でも、なんか、そうじゃないかなって・・・」というような気弱なマインドにある人間は、自分に向かって「戦え」とか他人に向かって「黙れ」と怒鳴りつけることはできません。そんなの「非常識」だからです。

一般解が存在しない状況で最適解を見つけるときに役立つ常識

だとすると、常に真理を理解していれば、常識などという曖昧なものは不要だと言うことになります。

というのは、常識的判断は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからです。

ところが、現実の人間社会は人が全ての真理を常に知り得ないという地点からスタートしているという真理が前提になっています。

ですから、現実において、人間の知性に問われるもっとも根源的で重要な働きは、真理を射抜き続けることではなく、「どう振る舞ってよいのかわからない場面で適切に振る舞うことができる」ことなのです。

振る舞い方についての網羅的な手引きが用意されていて、それと照合しさえすれば、すぐに「採用すべき言動」が決定されるような仕組みで私たちの実生活は成り立っていないことは、言わずもがなでしょう。

人生にとっていくつかの重要な岐路、例えば、進学先の選択、就職先の選択、結婚相手の選択、一攫千金を狙った投資の判断、ロスのダウンタウンで暴漢に拳銃を突き付けられたときの振る舞い方などのように、「必ずこうすべきだという一般解がない」状態で最適解をみつけることが私たちに求められます。

ロジカルに考えると、「一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能なことです。

けれども、「論理的にそんなことは不可能である」と言って済ませていたら、生きる上で死活的に重要な決定はひとつとして下せないことになります。

実際に私たちは、そういうときに正誤の枠組みを超えて、常識頼みの決断を下し続けています。

だからこそ、身体的な成長度以上に「常識」を身につけているか否かを物差しにして人間としての成熟度を図り、どんなに歳をとっている大人でも常識がない人を子供と呼び、どんなに年端が行かない子供でも常識を備えた人を大人と呼ぶのです。

常識に頼り過ぎると新しいやり方や考え方を受け入れ難くなる

さて、ここまでの話からすると、常識への評価は、人間だからこそ持ち得る素晴らしい知見という評価になりますが、残念ながら常識に頼りすぎた人は、ある時期から負債化した常識に苦しめられることになります。(本人は、それに気づかないところがミソなのですが・・・)

せっかく成人するまでに身につけた常識は、やがて新しい考え方に対する拒絶や適応を阻むという負の影響が出始めます。

新たなやり方や考え方と直面して、「どう振る舞ってよいかわからない」はずのときに、とりあえず前向きに取り入れるとか括弧を付けて棚上げにするのではなく、「(常識的に考えて)あり得ない」と「自信をもって」判断するようになったら、「常識の負債化」が起こり始めていることになります。

壮年期以降、本人は「(常識的に)正しい」と信じて疑わないにも関わらず、周囲の人から見ると、単なる頑固だったり偏屈であったりでしかない場合がありますが、これが負債化した常識を寄る辺にしている人の特徴です。

人間の寿命は受け入れるが企業の寿命は受け入れない風潮

ここまで、人間の成長曲線を念頭に置き、子供から青年へと成長する過程の中で「常識」を身につけることの大切さを確認する一方で、「壮年期」から「老年期」にかけては、体得した「常識」が負債化するリスクがあるという話をしてきました。

人間の場合には、こうした「成長」から「老化」の流れがあったとしても、不思議に思う人は少ないだろうし、むしろ当然とすら考える方がいるかもしれません。

なぜなら、人間にとって死が避けられないことを、誰しもが受け入れているからです。

だから、ほぼ全員が成長と老化は同一線上にあり、成長はいつか必ず老化へと転じるこという常識を身につけています。

しかし、企業の場合は少し話が違います。

人間と企業は、自然人と法人とも言い替えることが出来ますが、企業を人間とのアナロジーで表現したり説明したりすることがよくあります。

コンサルタントの中には、自らを「企業ドクター」と呼んでいる人がいるし、企業改革や再生の場面では、「大手術を施す必要がある」というような表現を見聞きしたことがあるはずです。

同様に、企業の「成長」を考えるときも、無意識に人間とのアナロジーに頼っていることが多いことに気づきます。

起業して間もない時期の社長は、「うちの会社は、まだヨチヨチ歩きで」と語り、単年度黒字を達成すると「やっと当社も一人前になりました」と語ります。

生まれたばかりで一人歩きが出来ず、生き抜くことすら危ぶまれる乳児が、着々と体力を付け学習を繰り返しながら、肉体的にも精神的にも逞しく育っていく人間の成長する様は、企業がスタートアップから幾多の試練を経ながら事業を軌道に乗せていく様に見事に重ね合わせることが出来ます。

小さな子供は、大人から見れば「未熟」ですが、同時に大きな「可能性」や「将来性」を感じとることが出来るという点でも、企業と人間は極めて相性のよいアナロジー関係にあります。

ところが、最後にこのアナロジーは不整合を来たし始めます。

なぜなら、人間については不老不死を信じていないのに、企業については不老不死をほとんどの人が望み、それが可能だと信じているからです。

つまり、人間の場合は、すべての人が死を避けられないという覚悟で人生を送っているのに対して、企業の場合は「老化をすることなく長寿を手に入れよう」と長寿のための算段を模索している経営者が多いのです。

特に日本は、創業200年超えの企業数が3,146社で世界最多であり、創業100年以上の企業になると3万社弱もあるため、会社が長生きすることが珍しいことではなく、当たり前のことのように考えがちですが、数値的に冷静に評価すると、やっぱり長寿企業はレアケースですし、2015年の倒産企業のうち業歴30年以上の企業の構成比は32.3%(出典:帝国データバンク)で、この数値は年々増えてきています。

また、コンサルティング会社の中には、社名自体を「百年コンサルティング」としているところもあるし、経営者にしてみても、何か将来のビジョンを思い描くときに「100年続く企業の礎を創り上げよう」という考えは、大変チャレンジングでワクワクすることでしょう。

企業の寿命を受け入れないことが寿命を縮めている皮肉

でも、全企業の平均寿命は24.1年(2015年東京商工リサーチ)であり、人間の平均寿命と比べたら約3分の1しかないことになります。

もちろん、企業は生物ではないので、理屈上は必然の死を迎えるとは決まっていません。

一方で、人間は必ず死ぬことが分かっているからこそ、「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ために、企業に不朽の器を期待する気持ちは分からなくはありません。

しかし、現実を見れば、ほとんどの企業が長寿をまっとうすることが難しいにも関わらず、永遠の成長や繁栄しか考えないことが、かえって企業の寿命を縮めているという皮肉な結果になっているのです。

人間の世界では、何年か前から「美魔女」ブームというものがありますが、ボディのアンチエイジングに並々ならぬ努力をして、外見の若さを保つことに躍起になっています。

本人達に言わせれば、決して見た目の若さだけで重要ではなく、「本当に大切なのは、内面の若さ」と言いたいのでしょうが、そもそも「不老不死に心のどこかで憧れる」とか「老いに逆らい若さを保つ」という思い自体は、大昔から人間が持つ年期の入った煩悩の一つで、考え方に「未熟さ」という意味での「若さ」が少しもありません。

若さへの執着を持っていることそのものが、自分の「老い」の証拠でしかないのだから、「内面の若さ」は、その時点で失われています。

別に美魔女批判がしたいのではなく、アナロジーとして企業にも同様に当てはまるということが言いたいのです。

新たな種を生み出すことより若返りに躍起になる企業

人間をはじめとする生物は、「新しい世代を生み出すこと」によって種を保存し、人類全体としての若さを保っていきますが、企業はふるまい方が違います。

経営者も社員も、美魔女のごとく「自分の会社自体を若返らせようとする」ことしか考えていません。

だからこそ、「世代交代」が重要だとして、「現経営者が次にバトンを渡して経営者の年齢が一気に30歳若返った」とか、「新卒採用を積極的に行うことで、社員の平均年齢が5歳下がった」とかいう話を意気揚々とすることになります。

でも、こうしたことをもってして、企業のアンチエイジングが出来ていると考えるのは誤解です。

企業のアンチエイジングとは、経営者や社員などの「個人」や組織としての「器」の話ではなく、基本的な考え方や価値観、つまりパラダイムを転換することを意味するからです。

仮に経営者の年齢が30歳若返ろうとも、以前からのパラダイムを踏襲しているのであれば、企業の老化への歯止めは全くかからないでしょう。

それでは、「パラダイムをシフトすればいいだろう」ということになりますが、ことはそう簡単ではありません。

人間と同じで、長い時間をかけて積み上げられ、無意識に作用するようになっている企業の「常識」を変えることは、相当に難しい。場合によっては、不可能に近いこともあります。

瀕死の状態に陥った企業を見ていると、資産が負債化し、ビジネスモデルが崩壊し、資金繰りがタイトになるという表面的には共通の特徴があります。

そして、最終的に再生の成否を決めるものは、表面的な症状を改善するためのテクニカルなコスト削減や借入金のリスケや販売促進策ではなく、こうした状況を招いたその企業の常識であるパラダイムを短期間に変えられるかどうかにかかっていることがよく分かります。

最終的に、タイムオーバーで倒産の憂き目を迎える原因は、表面的には資金繰りが持たなかったと語られますが、本質的には限られた時間でパラダイムをシフト出来なかったからです。

また、「もう少し早く相談に来てくれれば、もっとやりようがあった」と臍を噛む思いを持つことが以前はよくありました。

でも考えてみると「まだまだ大丈夫」と「これまでの常識で考えている」からこそ、引き返しが出来ないターニング・ポイントを見逃し、適切な相談のタイミングを失っているのです

経営者は企業内の常識の負債化に目を光らせよ

経営者は、企業における「資産の負債化」を考えるとき、バランスシート上で表面的に見えるもの以上に、「常識の負債化」が進行していることに着目することが重要です。

人間と同じく企業においても「常識」を培うことは、効率的なオペレーションのためには、無駄ではないどころか絶対に必要ですが、「未熟」から「成熟」することにより「常識」が身に付く反面、いい意味で突拍子もない危ない発想を失い「可能性」や「将来性」を失うことで、将来その「常識」が必ず自分自身の「足かせ」となり、生死に関わる原因になることを肝に銘じる必要があります。

それを避けるためのパラダイムシフトは、これまでの「常識」にカビが生えてから慌ててすることではなく、内外の環境を見定めながら主体的かつ意図的に進めてこそ成功の可能性が高まるのです。

後継者不在という初歩的な段階で「世代交代」が進まない企業が多い現状ですが、真の「世代交代」は人や器だけの問題ではなく、企業のパラダイムをシフトすることであることを重ねて申し上げておきます。

しかし、パラダイム・シフトは企業の不老不死を保証するものではありません。せいぜい老化の進行を遅らせるくらいの期待に留め、短期的な視野で経営をせずに、企業の寿命があること受け入れたうえで、逆算した時間軸を意識した長期的な視野で経営をする会社が増えることが、今後の日本において必要ではないかと考えています。

これを機会に、自社の常識が何かを明確にする取り組みをすることで、寿命のある経営を意識した第一歩を踏み出してはいかがでしょうか。

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